鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

「家畜」じゃなくて、「ニュー・タイプ」とでも言ってみたら:読書録「人間はどこまで家畜か」

・人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造
著者:熊代亨
出版:ハヤカワ新書(Kindle版)

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精神科医・熊代亨さんの新作。
…と言っても、熊代さんの「書籍」を読むのは(多分)初めて。
ブログ(シロクマの屑籠)の方はずっと読ませていただいてるんですけどね〜w。
そこで紹介されてて、ちょっと気になったので、購入してみました。

 

本書の概要について、熊代さんご自身はこうまとめられています(あとがき)


<「人間は文化によって進歩し、豊かな暮らしを実現させたが、ゆっくり進化してきた生物学的な自己家畜化をはるかに上回る文化のスピードに引きずられようとしている──それはどこまで恩恵で、どこから疎外か?」>


人類を進化させてきた「自己家畜化」(=「人間が作り出した人工的な社会・文化・環境のもとで、より穏やかで協力的な性質を持つよう自ら進化してきた、そのような生物学的な変化のこと」)。
その「自己家畜化」には<生物学的>な側面と、<文化的>な側面があって、遺伝子レベルでの変化で、世代を重ねながら変化する『生物学的な自己家畜化」の速度を遥かに凌駕して進む現在の「文化的な自己家畜化」、この両者の速度の齟齬に色々な問題が発生しており、もしかしたらそれは人類の「種」としての危機にまで繋がってしまうのではないか。


そう言う問題意識じゃないかと思います。

 

本書の前半では人類の「自己家畜化」の歴史が描かれています。
かなり興味深い内容で、例えば「中世」と「現代」の対比などは「へぇ」って感じです。


<私たちから見て、『アーサー王伝説』に記される感情表出や衝動的暴力は野蛮で我慢ならないもの、これで本当に自己家畜化が進んでいるのかと首をかしげたくなるほど反応的攻撃性の高いもののようにうつります。ところが中世ではこうした人間像こそ一般的で、現代人のような人間は落伍者として修道院に入らなければならなかったというのです。>


まあ、日本でも鎌倉時代〜戦国時代のことを考えると、
「なんでこんなに過激で暴力的やねん」
と思わざるを得ないところありますから、納得できる指摘ではありますかね。
そして、「自己家畜化」が進んだ「現在」。


<現在の私たちに内面化され、空間をも埋め尽くしている思想は、自己家畜化したホモ・サピエンスとしての行動形質を凌駕し、いわば〝文化的な自己家畜化〟とでもいうべきもので上書きしています。自己家畜化によって H PA系の縮小とセロトニンの増大が起こったとはいえ、かつての人間には衝動的に振舞わなければならない場面、コルチゾールやノルアドレナリンの命じるままに行動しなければならない場面が残されていました。しかし諸思想の浸透や都市の成立などを通して、現在の私たちはより安全で、より長寿で、より穏やかな文化と環境のもとに置かれています。社会契約に基づいた法治と暴力の独占が起こり、資本主義や個人主義に基づいた合理性を発揮しなければならないこの現代社会には、衝動性を発露させる場面、面子を守るために決闘する場面はほとんどありません。今日、衝動性をはじめとする H PA系の激しさは社会からの逸脱とみなされやすく、なんらかの矯正を求められるでしょう。  
このことをもって私が、真・家畜人がここに誕生した、と言ったら言いすぎでしょうか。>


「自己家畜化」が人類の繁栄と文明の洗練に寄与しているのは確か。
…だけど、社会環境の変化の速度が高まる中で、「文化的な自己家畜化」のペースに追いつくことができす、取り残されている人が増えてるのではないか?
精神科医として医療現場を知る作者の危惧はここにありるわけです。


<野生的で暴力的だった過去の生に Noと言い、今日の文化と環境にふさわしい生に Yesと言う。生物学的な自己家畜化を超えて、真・家畜人として文化や環境に飼い馴らされる生を、あなたは満喫していますか。もし満喫していて、そうした社会と生のありように疑問を感じないなら、真・家畜人として生き、馴らされ、管理されるのもそう悪くはないでしょう。ですがもし、この文化や環境に生きづらさを感じているなら?  それでもこの文化や環境を肯定できるでしょうか。そして今後さらに文化や環境が進展し、私たちが生物学的に身に付けている自己家畜化の水準と、〝文化的な自己家畜化〟のニーズがどこまでも乖離していくことさえ肯定できるでしょうか。>


<私は無条件には肯定できずにいます。なぜならその〝文化的な自己家畜化〟についていけていないとおぼしき人々、ここでいう真・家畜人として今日の文化や環境に適応できず、条件付きの生を生きざるを得ない人々のことを知っているからです。たとえば昨今の精神医療の現場は、そうした人々の浮かび上がってくる場のひとつではないでしょうか。>


僕自身はそういう「現場」を知りませんからなんとも言えません。
ただまあ、急速な社会の変化に取り残される人が増えてる印象はありますかね。
ポリティカルコレクトやフェミニズムをめぐるバックドラフトの動きや、「昭和憧憬」の流れなんかにはそう言う気配も感じます。
昭和40年生まれの60ジジイとしては、そう言う向きも理解できるってのもありますしね。


作者は本書の中で「2060年」と「2160年」の<未来>を夢想しています。
まあ、ディストピアですね。
でも「そうならない」とはとても思えない<未来>です。
そして僕自身は、
「そうなったらまあ、それも仕方ないんじゃない?」
とも思ったりもします。
無責任?
まあ、ある意味では。


世代は代わって行きます。
「生きにくい」<今>を作ってきたのは自分たちの世代。
今後、どういう社会を作っていくのか、その社会の基盤となる思想や基準を決めていくのは我々の後の世代(今の30代・40代)の仕事じゃ無いかと思います。
もちろん、自分自身の「生きやすさ」を求めて異議申し立てはするし、自己研鑽もするけどね。
でも自分が考える「生きやすい環境」がアプリオリに「正解」とは言えないし、言っちゃいけないと考えています。


「家畜」と言う言葉をチョイスする時点で、作者のある種の考え方の傾斜は出てきています。
でもこれを「ニュータイプ」とか、「新人類」とか置き換えたらどうですかね。
<文明化>が人類を繁栄させているのだとしたら、そういう考え方をしたっておかしくない。
そこから取り残される人々については、「特別に対処する」と言うスタンスをとって、大きな方向性としては更に「文化的な新人類化」を加速させていくべき…
そう言う見方が僕の下の世代から出たとした時、僕はそれを否定することができないです。
「文化的な新人類化」を後退/回避させることによって、暴力性やボラティリティのリスクが増大することを甘受せよ…とは言えないですから。
(…って、「ニュータイプ」とか「新人類」って、古過ぎるか)


まあ、煎じ詰めれば「ほどほどな着地点を模索して行こうよ」ってことでしょうかね。ありきたりではありますが。
その「模索」のための指針として、参考になる見方を本書は提供してくれていると僕は思います。
面白かったですよ。