鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

読書録『「夫婦」不在社会』:村上春樹論から、着地点は…

・「夫婦」不在社会
著者:三宅香帆
出版:講談社

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三宅香帆さんの新刊です。

一見「夫婦不在社会」というタイトルを見ると、現代の家族論や社会評論なのだろうと思わせて、「夫婦」というテーマを入口にして、本当は村上春樹論を書きたい本なのかな。

そんなふうに思いながら読み進めていました。

読み終わる頃にはその印象は少し変わるのですが。

 

「夫婦」がいないとはどういうことか

本書でいう「夫婦不在」とは、結婚する人が減ったという話ではありません。

家族は存在している。

父も母もいる。

でも、その二人が「夫婦」として互いを理解しようとする関係が、物語から消えている。

そこに問題意識があります。

親子は描かれる。

母と娘も描かれる。

父と子も描かれる。

しかし、その親たちが「夫婦」としてどう生きているのかは、驚くほど描かれない。

そこで三宅さんは、昭和から令和までの文学や映画を読み直しながら、その空白を考えていきます。

そして、その中心に置かれているのが村上春樹です。

文芸評論として、とても面白かった

個人的には、この本で一番面白かったのは、社会論よりも文学評論としての部分でした。

特に『風の歌を聴け』。

僕は「ああ、批評家というのはこういう読み方をするんだ」と素直に驚きました。

妊娠小説という視点。

父になれない男性という視点。

親ガチャという現代的な文脈からの読み直し。

なるほど、そういう読み方があるのか、と。

また、『眠り』の位置づけも印象に残りました。

三宅さんや川上未映子さんが『眠り』を高く評価していることは知っていましたが、本書では「労働」「家庭」「私の時間」という流れの中にきれいに位置づけられていて、改めて読み直したくなりました。

文学評論として読んでも十分に読み応えがあります。

村上春樹は「横の関係」から「縦の関係」へ向かった

本書で最も印象に残ったのは、村上春樹作品の変遷です。

初期作品から『ねじまき鳥クロニクル』までは、「夫婦」「恋人」「パートナー」といった横の関係を描こうとしていた。

しかし、『海辺のカフカ』以降は、「親子」という縦の関係へと主題が移っていった。

そう整理しています。

なるほど、そう言われると確かにそんな流れにも見えます。

もちろん、これは「親子を描くようになったから悪い」という話ではありません。

本書が問題にしているのは、「父親の不在」です。

親子が描かれる一方で、その前提となる夫婦関係が語られなくなっている。

だからこそ、「夫婦」を描く文学が必要なのではないか。

そんな問題提起なのだと思います。

『夏帆』を読むと、この批評は意外なほど当たっている

本書が書かれた時点では、当然ながら村上春樹の最新作『夏帆』は刊行されていません。

しかし、『夏帆』を読んだ今振り返ると、この本の指摘は思った以上に当たっているように感じます。

『夏帆』は、母と娘の関係が物語の大きな軸になっています。

つまり、本書が指摘した「夫婦・パートナーから親子へ」という流れは、最新作でも続いているように見えるのです。

この点は、読後に改めて面白いと思いました。

評論が、新しい作品によって補強されてしまった。

そんな感覚があります。

少し気になったこと

一方で、少し物足りなく感じた点もあります。

それは『1Q84』がほとんど論じられていないことです。

もちろん、本書のテーマからすると扱いにくい作品なのかもしれません。

ただ、『1Q84』は村上春樹作品の中でも非常に大きな位置を占める長編です。

「戦後社会を代表する作家」として村上春樹を論じるのであれば、この作品をどう位置づけるのかは読んでみたかったという気持ちは残りました。

最後は、やはり「労働」の話になる

終盤は、「夫婦」の問題を「時間」の問題として整理していきます。

仕事の効率性が家庭まで入り込み、夫婦の会話が侵食されてしまう。

だからこそ、「急がない時間」が必要なのだ、と。

ここは『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』とも通じる、三宅香帆らしい着地点でした。

著者としては一貫していると思います。

ただ、正直に言えば、「やっぱりそこへ着地するのか」という気持ちも少しありました。

もっと「夫婦」というテーマそのものから、新しい可能性が提示されるのではないかという期待があったからです。

もっとも、それを描いた文学自体が少ない以上、評論としてはこの結論になるのも自然なのかもしれません。

全体として

久しぶりに、しっかりとした文芸評論を読んだという満足感がありました。

社会評論としてももちろん面白いのですが、僕にとっては村上春樹作品を読み直すきっかけを与えてくれた一冊でした。

全面的に賛成というわけではありません。

『1Q84』をどう読むのかも気になりますし、「夫婦」の先にある展望については、もう少し聞いてみたかった気もします。

それでも、『夏帆』まで読んだ今だからこそ、この本の提示した「村上春樹の変遷」という見立ては、思っていた以上に説得力を持って感じられました。

文学を通して現代の家族を考える。

そんな読書体験として、印象に残る一冊でした。

 

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#「夫婦」不在社会
#三宅香帆

読書録『刑事の境界線』:面白い。でも、思ったほど「モジュラー型」ではなかった

・刑事の境界線
著者:宮島明道
出版:宝島社(宝島社文庫)

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今年の『このミステリーがすごい!』大賞文庫グランプリ受賞作ということで読んでみました。

受賞作というだけでも興味はあったんですが、紹介文で「モジュラー型ミステリー」という言葉が使われていたのが決め手でした。

 

僕はエド・マクベインの「87分署シリーズ」やR・D・ウィングフィールドの「フロスト警部シリーズ」が好きなんですよね。複数の事件が同時進行し、それぞれが独立しているようでいて、最後には一つの作品としてまとまっていく。あの構造には独特の面白さがあります。

そんな期待を持って読み始めた一冊でした。

 

事件よりも、「刑事の境界線」がテーマ

舞台は小金井中央警察署。

主人公は二人います。

一人は刑事第一課盗犯係の若手刑事・馬場みどり。もう一人は組織犯罪対策係のベテラン刑事・為井忠之です。

馬場は窃盗事件を追い、為井は組織犯罪を担当する。それぞれ異なる事件を捜査する中で、警察内部の問題やDV、暴力団との関係など、さまざまな出来事が並行して描かれていきます。

タイトルの「刑事の境界線」が示すように、この作品のテーマは「刑事として、どこまで踏み込んでいいのか」という倫理や正義の境界線にあります。

単なる犯人探しではなく、刑事自身の立場や葛藤を描こうとしている作品だという印象でした。

 

モジュラー型と言われると、少し印象が違った

で、僕が一番引っかかったのはここです。

確かに事件は複数走っています。

警察内部のいじめの問題もあれば、DVに関わる話もある。それぞれがちゃんと面白い。

ただ、読んでいて感じたのは、メインとなる事件の存在感がかなり強いことでした。

87分署シリーズやフロスト警部シリーズだと、大小さまざまな事件がほぼ並列に進み、それぞれが警察署の日常を形作っています。

一方、この作品ではメインストーリーがしっかりと中心に据えられていて、他の事件はそこを補強する役割に見えました。

もちろん、それが悪いわけではありません。

作品としての軸はむしろ明確ですし、読みやすさにもつながっています。

ただ、「モジュラー型ミステリー」と聞いて僕が期待していたものとは、少し違っていたかな、というのが正直な感想でした。

 

続編への期待と、少し物足りなかった余韻

もう一つ感じたのはラストです。

僕が好きなモジュラー型ミステリーって、最後に「ああ、全部つながった」と思わせてくれる気持ちよさがあるんですよね。

ところが本作は、いくつかの謎をあえて残し、そのまま続編へつなげるような終わり方になっています。

これは決して欠点ではありません。

むしろ、「続きを読みたい」と思わせる意味では、とても上手い構成だと思います。

ただ、その分だけ「すべてが収束した」という爽快感は少し弱くなったようにも感じました。

期待していた方向と違っただけで、作品としての完成度とは別の話なんですけどね。

 

それでも、一日で読み切ってしまった

とはいえ、結局のところ僕はこの本を一日で読んでしまいました。

読み始めると先が気になって止まらない。

これは素直に面白かった証拠だと思います。

僕の違和感は、「モジュラー型ミステリー」という紹介から受けた期待との差に過ぎません。

警察小説として見れば、複数の部署を舞台にしながら、それぞれの刑事が抱える葛藤や正義を描いた作品として十分に楽しめました。

そして、ラストで残されたものがある以上、続編が出たらたぶん僕はまた読むでしょう。

モジュラー型ミステリーとしては少し印象が違いましたが、警察小説としては読み応えのある一冊でした。

 


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読書録「WIN」:面白い。でも、ウィンは"特別な脇役"でいてほしい

・WIN
著者:ハーラン・コーベン
訳:田口俊樹
出版:小学館(Kindle版)

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マイロン・ボライターシリーズのスピンオフ。あの「ウィン」ことウィンザー・ホーン・ロックウッド三世が、初めて単独主人公を務める長編です。

シリーズを長年読んできた身としては、「ついに来たか」という一冊でした。

ウィンは、圧倒的な財力と身体能力、そして一般的な善悪では測れない独自の倫理観を持つ危険な男。主人公マイロンとは対照的な存在でありながら、揺るぎない友情と信頼で結ばれた相棒です。

「いつかウィンが主役の作品を読んでみたい」と思っていた読者は、少なくなかったんじゃないでしょうか。……僕もその一人ですw

 

## あらすじ

ニューヨークの高級マンションで、一人の老人が殺害されます。

現場に残されていたのは、20年以上前にロックウッド家から盗まれたフェルメールの名画と、「WHL3」のイニシャルが入ったウィン自身のスーツケース。

実はその20年以上前、ウィンの従妹パトリシアは誘拐・監禁されるという凄惨な事件の被害者となっていて、名画もそのとき盗まれたまま行方不明になっていました。さらにFBIは、この事件が未解決の国内テロ事件とつながっている可能性を示唆します。

自分の持ち物が、なぜ殺人現場にあったのか。

ウィンは警察とは異なるやり方で、事件の真相へと迫っていきます。

「過去が現在を追いかけてくる」、コーベンらしい構成です。

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## ネオ・ハードボイルドの「相棒」という系譜

ウィンの立ち位置って、ネオ・ハードボイルドの系譜の中で見ると、なかなか面白いんですよね。

ロバート・B・パーカーのスペンサー、ローレンス・ブロックのマット・スカダー。ネオ・ハードボイルドの主人公たちは、強い倫理観を持ちながら、その正義ゆえに葛藤し、傷つき、弱さを抱える人物として描かれてきました。

で、その傍らには、主人公とは異なる論理で動く相棒がいる。

スペンサーにとってのホーク。スカダーにとってのミック。そしてマイロンにとってのウィン。

彼らは一般的な正義や倫理には縛られない。独自の価値観で物事を割り切り、必要とあれば暴力もためらわない。でも、主人公への友情だけは絶対に裏切らない。

この危うさと頼もしさの同居こそが、彼らの魅力なわけです。

本作でも、その「ウィンらしさ」は健在でした。事件の解決方法も、最後の決着のつけ方も、「これはウィンだからこそ」と思わせるもの。凄惨な事件を扱いながら、ラストには十分な納得感があって、「これはウィンの物語だった」と素直に思える結末でした。

マイロンの元恋人ジェシカとのやり取りとか、マイロンとの友情を改めて感じさせる場面とか、シリーズファンにうれしい要素も随所にあります。コーベンらしい巧みなどんでん返しも健在で、スピンオフとしての完成度は高いと思います。

## 内面を描かれると、神秘が減る

ただ、一番引っかかったのはここです。

本作は、ウィン自身の内面や一族の過去に深く踏み込んでいきます。全編がウィンの一人称で語られるので、これまで謎めいていた彼の頭の中が、かなり見えてしまう。

それによってキャラクターに厚みが加わったのは、間違いない。

……んですが、正直に言うと、ちょっと複雑な気持ちも残りました。

ウィンって、どこか超然としていて、本心が見えないからこそ魅力的だった面があると思うんですよ。マイロンの視点から見た、何を考えているか分からない危険な男。あの距離感が良かった。

あまり内面まで描きすぎない方が、この人物の神秘性は保たれたんじゃないかなあ、という気もします。

## それでも「特別な脇役」でいてほしい

読み終えて残ったのは、「やっぱりウィンは"特別な脇役"でいてほしい」という思いでした。

長期シリーズの主人公として内面を掘り下げ続けるよりも、マイロンの隣に時折現れて、圧倒的な存在感を見せる。その方が、この人物の魅力は際立つんじゃないか。

だから本作を読んだ今も、『WIN』シリーズの続編を望むというより、「新しいマイロン・ボライターシリーズの中で、またウィンに会いたい」。そんな気持ちの方が強く残りました。

本作は十分に面白い。スピンオフとしてもよくできている。

でも同時に、「脇役だからこそ輝くキャラクターとは何か」を考えさせられる一冊でもありました。

#読書感想文
#WIN
#ハーラン・コーベン

読書録「ニュー日本文学史」:古典が苦手でも、一気に読めた理由

・ニュー日本文学史

著者:三宅香帆
出版:淡交社

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読み始めたら、そのまま一気に読み終えてしまいました。

240ページほどで、文字も比較的大きい。そもそも読みやすい本ではあります。ただ、それだけではありません。扱っているのは平安時代から明治時代までの日本文学です。普通に考えれば、僕にとってはそれほどスラスラ読めるテーマではないんですよね。

 

正直に言うと、僕は古典があまり得意ではありません。古文を原文で読むとなると、どうしても身構えてしまいます。

それでも、この本は面白かった。

なぜだろうと考えてみると、三宅香帆さんが説明しているのは、作品のあらすじや文学史上の評価だけではないからだと思います。

本書が描いているのは、「なぜ、その作品が当時は新しかったのか」です。

 

古典は、最初から古典だったわけではない

『ニュー日本文学史』には、『土佐日記』『紫式部日記』『平家物語』『方丈記』『徒然草』『おくのほそ道』『好色一代男』『南総里見八犬伝』『舞姫』『吾輩は猫である』など、教科書でもおなじみの作品が登場します。

今となっては、どれも「古典」と呼ばれる作品です。

ただ、当然ながら、それらは最初から古典だったわけではありません。

漢文で記録を書くのが当たり前だった時代に、仮名で個人の感情を書く。華やかな宮廷社会の中で、そこになじめない女性の孤独や葛藤を残す。災害を記録し、人間の暮らしがいかに簡単に崩れるかを書く。格調高い文学の中へ、庶民の欲望や事件、笑いや下品さを持ち込む。

今では伝統の中心に置かれている作品も、それが書かれた時点では、かなり変わった試みだった。

本書では、その「名作になる前の姿」が描かれています。

時代になじめなかった個人が、新しい言葉や形式を生み出す。それが当初は異端や傍流と見られながら、後世に残り、やがて新しい伝統になる。

この見方が、本書全体を貫いています。

文学史を完成した名作の一覧としてではなく、新しい表現が生まれ、少しずつ歴史を更新していく過程として読むわけです。

 

なぜこの人は、この表現を選んだのか

僕が特に面白いと思ったのは、作者が置かれていた社会的な立場と、作品の形式が結びつけて語られているところです。

たとえば『土佐日記』では、男性官僚だった紀貫之が女性になりきり、仮名で日記を書きます。

現在の感覚では、仮名で日記を書くこと自体に驚きはありません。しかし、当時の男性が公的な記録を書くなら漢文が基本です。紀貫之は女性という設定と仮名文字を使うことで、漢文の日記では書きにくかった私的な感情や悲しみを表現した。

つまり、「女性のふりをした面白い日記」というだけではない。その形式を選ばなければ書けなかったものがあった、ということです。

『紫式部日記』では、紫式部が宮廷社会になじめず、周囲と距離を感じていたことが語られます。きらびやかな平安貴族の世界というより、そこに居場所を見つけられない一人の人間の肉声として読むわけです。

『方丈記』では、鴨長明が火災、地震、飢饉などを具体的に記録したことの意味が取り上げられます。『平家物語』は合戦の記録であると同時に、亡くなった人々を記憶する鎮魂の物語として読まれる。

作品だけを切り離して解説するのではなく、

「なぜこの人は、この時代に、この表現を選ばなければならなかったのか」

という問いが一貫しています。

作者が社会の中でどのような位置にいたのか。何になじめず、何に違和感を持っていたのか。その違和感が、どのような言葉や形式へ変わったのか。

ここが本書の一番の読みどころだと思います。

 

男装、転生、長期連載――古典が急に近くなる

もう一つ、本書が読みやすい理由は、古典を現代の読者が知っている言葉へ翻訳していることです。

『有明の別れ』なら男装もの。『浜松中納言物語』なら異世界転生的な物語。『堤中納言物語』なら、短くてオチのある短編集。『南総里見八犬伝』なら、長期間にわたって続いた巨大な連載作品です。

もちろん、現代のライトノベルや漫画と古典を、そのまま同じものとして扱うことはできません。時代も社会も、読者の環境も違います。

ただ、入口としてはかなり有効です。

古典というだけで遠い世界に思えていたものが、「それは今でいう転生ものなのか」「江戸時代にも長期連載を追いかける読者がいたのか」と考えると、急に距離が縮まります。

『好色一代男』では性や欲望、『曾根崎心中』では庶民の間で起きた事件、『根南志具佐』では平賀源内の風刺が取り上げられます。

文学を更新したのは、高尚な思想や美しい文章だけではない。

下品さ、ゴシップ、庶民の生活、笑い、風刺、娯楽性。そういうものも、新しい読者と表現を生み出してきた。

このあたりは、現代の小説や漫画、ドラマ、ネット文化にもそのままつながる話でしょう。

 

「令和人文主義」の読みやすさ

三宅香帆さんは、近頃「令和人文主義」と呼ばれる書き手の一人として名前が挙がることがあります。

この言葉自体がどこまで明確な思想的まとまりを示しているのかは、僕にはよく分かりません。ただ、専門的な知識を現代の読者に届く言葉へ翻訳する書き手が注目されている、ということなら理解できます。

三宅さんは京都大学文学部から大学院へ進み、古典文学、とくに『万葉集』を研究していました。ですから本書は、売れている評論家が思いつきで古典を紹介した本ではありません。古典文学は、もともと三宅さんの専門に近い領域です。

その一方で、研究者向けの言葉では書かれていません。

ここがうまいんですよね。

専門知識を前面に出して読者を圧倒するのではなく、「この作品は、当時の人にとって何が新しかったのか」という分かりやすい問いに置き換える。そして、作者の人物像や社会的な立場を紹介しながら、作品が生まれた必然性を見せていく。

簡単な言葉で書いているから内容が浅い、という感じもしません。むしろ、何を残し、何を省けば一般の読者に届くのかが、よく考えられています。

専門的な内容を分かりやすく書くというのは、知識を薄めることではありません。複雑な背景を理解したうえで、読者が入っていける道筋をつくることです。

本書を読んでいると、三宅さんはその道筋をつくるのがかなりうまいのだと思います。

 

「推し」だけではない距離感

三宅さんには、「推し」や「好き」を入口にして文学を語る書き手というイメージもあります。

本書でも、取り上げる作品や作者に対する熱量はかなり感じます。作者の変わったところ、不器用なところ、社会になじめなかったところを見つけて、現代の読者に紹介する。その語り方には、人物や作品への愛着があります。

ただし、単なる「私の推し作品を紹介します」という本ではありません。

作品が好きだという熱量を保ちながら、それが文学史の中でどのような位置を占めたのかを説明する。作者の人物像に寄り添いながらも、作品の革新性を少し離れたところから評価する。

紹介と批評のバランスが取れています。

親しみやすく語っているけれど、ただ親しみやすいだけではない。作品がなぜ残ったのかを、形式と時代背景の両方から説明しようとしている。

その意味では、三宅さんの「好きなものを語る力」と、文芸評論家としての読み方が、うまく重なった本なのだと思います。

 

驚きよりも「なるほど」が残る

正直に言うと、本書を読んで、驚くような新発見が次から次へと出てきた、という感じではありませんでした。

もちろん、僕が知らなかった作品や作者のエピソードはあります。ただ、それ以上に強かったのは、

「なるほど、そういう見方で古典を読むのか」

という納得感です。

作品の内容を知るだけなら、解説書やインターネットでも調べられます。本書の価値は、個々の知識よりも、古典を見るための視点を提示していることにあります。

その作品には何が書かれているのか、ではなく、

「その作品が登場する以前には、何を書くことができなかったのか」

を見る。

新しい作品は、何もないところから突然生まれるわけではありません。既存の規範があり、そこに窮屈さや違和感を覚える人がいて、その人が別の言葉や形式を探す。その試みが、後になって古典と呼ばれるようになる。

この読み方を知ると、古典は「昔の偉い人が書いたもの」ではなくなります。

むしろ、当時の常識にうまく収まれなかった人が残した、抵抗の記録に見えてくる。

本の帯にある「古典って、こんなにバッチバチの抵抗の記録だったとは!!」という言葉は、少々派手ではあります。でも、本書の狙いはかなり正確に表していると思います。

 

網羅的な文学史ではない

もっとも、この本を日本文学史の全体を学ぶための教科書だと思って読むと、少し違います。

取り上げられるのは、平安時代から明治時代までの22作品です。『紫式部日記』『方丈記』『おくのほそ道』は複数回に分けて扱われていますが、大正、昭和、戦後、現代文学には進みません。

題名は『ニュー日本文学史』ですが、古代から現代までを網羅した通史ではないんですね。

また、作品の選択にも、「時代になじめなかった個人が新しい言葉を生む」という三宅さん自身の問題意識が反映されています。

すべての古典が、この図式だけで説明できるわけではないでしょう。作者個人の抵抗だけでなく、政治、宗教、出版制度、読者層、経済など、文学を変える要因はほかにもあります。

ただ、本書も網羅的な文学史を目指しているわけではありません。

文学史全体を説明するというより、古典を見るための新しい補助線を一本引く。その補助線が明快だから、これまで古典にあまり親しんでこなかった僕にも、流れが見えやすかったのだと思います。

 

古典を読む前に読む本

古典そのものを読むのが苦手な僕でも、本書は最後まで楽しく読めました。

それどころか、紹介されている作品のいくつかについては、実際に読んでみたいという気持ちにもなりました。

もっとも、本当に原文を読み始めたら、やっぱり途中で苦労するのかもしれません。そこは別問題ですw

それでも、「読まなければならない古典」だった作品が、「ちょっと読んでみたい作品」に変わった。この変化は小さくありません。

近年、三宅さんは『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』などのヒット作を出し、文芸評論や社会批評の書き手として広く知られるようになりました。本書を読むと、その評価にも納得できます。

専門的な研究を土台にしながら、それを一般の読者に開く。しかも、分かりやすくしたことで作品の面白さを失わせない。

古典とは、古い作品なのではない。

その時代には新しすぎたのに、古くならずに残った作品なのだ。

本書を読んだ後には、古典が少し違って見えます。僕にとっては、それで十分に面白い読書でした。

 

 

#読書感想文 #ニュー日本文学史 #三宅香帆

読書録「定年後の日本人は世界一の楽園を生きる〈実践・成功編〉」:なるほどは多い。でも、「いつ始めるか」が一番悩ましい

・定年後の日本人は世界一の楽園を生きる〈実践・成功編〉

著者:佐藤優
出版:飛鳥新社

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前作『定年後の日本人は世界一の楽園を生きる』を読んでいたので、その続編となる本書も読んでみました。

前作を読んだときの感想は、「思ったよりも保守的で堅実な本だな」というものでした。

起業して一旗揚げるとか、資産運用で大きく儲けるとか、そういう話ではありません。人間関係を整理し、自分の好きなことを続けながら、家族を中心に静かに暮らしていく。そんな定年後の生き方が描かれていました。

そのとき僕は、「たぶん自分は佐藤さんのいう『引きこもり型』になるんだろうな」と書きました。

もちろん、部屋から一歩も出ないという意味ではありません。人付き合いを無理に広げるより、自分の興味のあることを楽しみながら暮らす。そういう意味での「引きこもり」ですw。

では、その続編となる本書はどうだったのか。

 


前作を「実践マニュアル」にした一冊

読んでみると、内容そのものは前作から大きく変わっているわけではありません。

本書は、お金、学び、健康、介護、人間関係、仕事など、それぞれのテーマについて具体例や細かな情報を追加し、「実際にはどう考え、どう行動すればいいのか」を説明した一冊でした。

その意味では、新しい理論や考え方が示されるわけではありません。

ただ、「なるほどね」と思う具体例は多く、前作を補強する読み物としては、とてもよくまとまっています。

 


投資については、今の僕の考え方とほぼ同じ

投資については、基本的にはインデックス投資を中心にした堅実な運用が勧められています。

このあたりは、今の僕自身の考え方ともほぼ一致していました。

定年後は、「どれだけ資産を増やすか」より、「安心して生活を続けられるか」の方が大切になります。

もちろん、インデックス投資なら絶対安全という話ではありません。

それでも、理解できる範囲で資産を運用するという考え方には納得できます。

この章については、「新しい発見」というより、「今の考え方でいいんだろうな」と確認する読書になりました。

 


一番面白かったのは「学び」の話

僕が一番面白かったのは、やはり学びについての章でした。

前作でも佐藤さんは学び直しの重要性をかなり強調していましたが、今回はその具体例が数多く紹介されています。

「これは結構、使えるかもしれない」

と思えるものもありました。

ただ、そこで一番考えさせられたのは、

「いつ始めるか」

ということです。

今はまだ仕事も続けています。

だから、「もう少し余裕ができてから」と思ってしまいます。

でも、そのまま先送りしていると、結局は仕事を辞めてからになってしまう。

一方で、その頃には今より体力も落ちているでしょう。

というか、今でも結構ガタが来ていますw。

そう考えると、定年後の準備は定年後になってから始めるものではなく、60代前半くらいから少しずつ始めた方がいいのかもしれません。

この本を読んで、一番自分自身へ返ってきたテーマはここでした。

 


健康と介護は、「確認する読書」だった

健康や介護についても印象に残りました。

母親の介護のこと。

そして自分自身の健康のこと。

どちらも今の僕にとっては、決して遠い話ではありません。

もっとも、「知らなかった」という話よりも、

「やっぱりそうだよな」

と確認する読書だったという印象です。

楽しいテーマではありません。

でも、定年後を考える以上、避けては通れない話でもあります。

 


やっぱり卒論は深めないかな

一方で、前作でも感じたことですが、

「大学時代の卒論を掘り起こし、さらに研究を深める」

という提案には、今回もあまり共感できませんでした。

これは佐藤優さんだからできることなのでしょう。

もちろん、そういう人生もあると思います。

でも僕は、今さら卒論を深めようとは思いません。

学び直すのであれば、AIでも、本でも、映画でも、仕事でも、今の自分が面白いと思えるテーマから始めた方が自然な気がします。

 


「今の自分」を整理するための一冊

全体として、本書は前作の内容をさらに具体化した実践編という位置づけでした。

前作を読んだ人なら、大きな驚きはないと思います。

その一方で、それぞれのテーマが整理され、「実際にはどうすればいいのか」が分かりやすくなっています。

投資については、自分の考え方を確認できた。

健康や介護については、現状を整理できた。

そして何より、「学びはいつ始めるのか」という問いを、自分自身へ突きつけられました。

改めて何か新しい発見がある本ではありません。

でも、自分の現在地を確認し、「これから何を少しずつ始めるべきか」を考えるきっかけとしては、十分に読む価値のある一冊だったと思います。

僕自身、卒論を掘り返すことはたぶんありません。

ただ、「もう少し余裕ができてから」と言い続けるのは、そろそろやめた方がいいのかもしれません。

 


#読書感想文
#定年後の日本人は世界一の楽園を生きる〈実践・成功編〉
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映画評「エノーラ・ホームズの事件簿3」:テーマは大きくなったけど、ちょっとエノーラからは遠くなったかな?

Netflix映画「エノーラ・ホームズの事件簿3」を視聴。

ミリー・ボビー・ブラウン主演、「シャーロック・ホームズの妹」エノーラを主人公にしたシリーズ第3作です。

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今回は、エノーラとテュークスベリーの結婚式を目前に、兄シャーロックが何者かに誘拐される。舞台はマルタ。事件を追ううちに、テュークスベリー家の過去、英国帝国主義、アフガンの金塊、そしてモリアーティの企みが絡んでくる……というお話。

 

ちなみに監督は、前2作のハリー・ブラッドビアから、『アドレセンス』のフィリップ・バランティーニに交代しています。今作が過去2作とトーンが変わったのは、このあたりも効いているのかもしれません。

まあ、面白かったです。

これは素直にそう思います。

 

1時間45分ほどの映画ですが、映画としてはよくまとまっている。テンポも悪くないし、活劇としての見せ場もちゃんとある。エノーラ、シャーロック、母親ユードリア、テュークスベリー、そして前作から登場したモリアーティと、主要人物も惜しげもなく登場します。

シリーズ3作目として、観客が見たいものはかなりきっちり出してくれている感じです。

 

エノーラが画面のこちら側に語りかける、いわゆる「第四の壁」を破る演出も健在。

この演出、下手にやるとかなり鬱陶しくなりそうなんですが、このシリーズではわりとうまく機能していると思います。観客を単なる傍観者にせず、エノーラの共犯者、あるいは相談相手のような位置に置く。そこがこのシリーズの軽やかさにもつながっているんでしょう。

 

一方で、やっぱり今回も「ホームズもの」として見ると、ちょっと雑なところはあります。

まあ、これは1作目からそうなんですけどね。

そもそもこのシリーズは、本格的な推理ものというより、冒険活劇としての性格が強い。ドイルのホームズにも冒険譚的な要素はあるので、それ自体が悪いわけではありません。

 

ただ、それにしても今回は、

「いや、シャーロック、そんなに簡単に捕まる?」

とは思いました。

 

ヘンリー・カヴィルのシャーロックは好きなんですよ。

この人のホームズは、原典の偏屈さや冷たさよりも、かなり「いい人」寄りに振られている。そこはこのシリーズならではのアレンジだと思いますし、ビジュアルも含めて魅力はあります。

 

でも、いくらエノーラを主人公として活躍させるためとはいえ、シャーロックがわりとあっさり囚われの人になってしまうのは、やっぱり少し引っかかります。

ホームズなら、もうちょっと何かあるんじゃないの?

そこはちょっと言いたくなりました。

 

ただし、これは「映画がシャーロック・ホームズの物語になりすぎた」ということではないと思います。

むしろ今回は、1作目や2作目に比べると、本家ホームズものとしての色は少し薄められていたようにも感じました。

シャーロックは出てくる。
モリアーティも出てくる。
そして今作からは、ヒメーシュ・パテル演じるワトソン博士まで登場する。

本家の記号は、むしろ揃ってきているんです。

でも、それらはあくまでエノーラの物語を動かすための要素であって、映画全体が「シャーロック・ホームズもの」になってしまったわけではない。ワトソンでさえ、シャーロックの相棒というより、エノーラの捜査を手伝う立ち位置で使われている。

だからこそ、シャーロックがわりと簡単に捕まってしまう、という展開にもなったのでしょう。

 

シャーロックを圧倒的な名探偵として前面に出すよりも、本家ホームズの記号を借りてきて、エノーラの物語の中に収めていく。

 

そこがこのシリーズらしさでもあり、同時にホームズファンとしては少し物足りなさを感じるところでもあります。

 

このシリーズは、1作目から現代的なテーマをビクトリア朝の物語に持ち込んでいます。

 

1作目は、女性の自立。

母親ユードリアのフェミニズムは、かなり過激なところもある。家族を捨て、場合によってはテロ的な行為も辞さないような、激しい女性解放の姿勢。その中でエノーラ自身が、自分はどう生きるのか、誰かの妹でも、誰かの娘でもなく、自分自身としてどう立つのか、という話になっていた。

だから、テーマとキャラクターがかなり近かったんですね。

エノーラの物語そのものが、女性の自立の物語だった。

 

2作目は、女性労働者のストライキ、貧困、労働問題が背景にありました。

ここではエノーラが探偵事務所を開き、「探偵」として自立しようとする。ただし、一人で立つことと孤独になることは違う。母親とシャーロック、それぞれの生き方の反省のようなものが、エノーラの選択に影響を与えている。

このあたりも、社会的なテーマとエノーラ自身の成長が、まだかなり近いところにあったと思います。

 

で、3作目。

今回のテーマは、帝国主義です。

テュークスベリー家の名誉が、実は英国帝国主義の犯罪と分かちがたく結びついていた、という話。アフガンから奪われた金塊、隠蔽された過去、そして父の世代が背負っていた罪。現代的な問題意識としては、もちろん分かります。

今の世界を見ても、大国が勝手に振る舞い、過去の不正義を都合よく忘れようとする構図は、別に昔話ではありません。

 

ただ、映画を観ていて、そこまで強く現実と重なる感じはありませんでした。

それはたぶん、テーマが少し大きくなりすぎたからじゃないかと思います。

女性の自立は、エノーラ自身の身体感覚に直結していました。

労働と貧困も、若い女性たちがどう生き延びるかという点で、エノーラの視線と重なっていた。

でも帝国主義となると、どうしても話が大きい。

もちろん、テュークスベリーが貴族であり、エノーラがその彼と結婚しようとしている以上、無関係ではありません。実際、映画のほうもそこは分かっていて、終盤、テュークスベリーに家の過去と向き合わせ、大きな決断をさせることで、帝国主義というテーマを二人の結婚の物語に接続しようとしています。

この展開自体は、脚本としてよく考えられていると思います。

でも、それでもやっぱり、エノーラ自身の物語としては少し距離がある。

これはあくまでテュークスベリーの家の話であって、エノーラの内面の話ではない。

1作目の「私は誰のものでもない」という切実さ。

2作目の「一人で立つことと、誰かとつながることは矛盾しない」という成長。

それに比べると、3作目の帝国主義批判は、少し外側から持ち込まれたテーマに見えてしまうところがありました。

そのぶん、深刻さは少し薄れた気がします。

いや、扱っていること自体は深刻なんですけどね。

でも、エノーラの内面に深く刺さってくる感じは、1作目ほどではなかった。

 

一方で、活劇映画としてはちゃんと楽しい。

マルタの風景。結婚式。馬車。銃撃。モリアーティとの対決。

映画的な見せ場はきちんと用意されている。モリアーティも、単なる悪役ではなく、前作からの流れを受けてきっちり再登場する。

このモリアーティの使い方は、なかなか良かったと思います。

ホームズ世界におけるモリアーティという大きな名前を、エノーラの物語にどう組み込むか。その点では、かなりうまくやっている。

 

それから、母親ユードリアが思っていたより活躍するのも良かったです。

ヘレナ・ボナム=カーターが演じるこの母親は、1作目からかなり強烈な存在でした。

優しい母親というより、娘を愛してはいるけれど、自分の思想と行動を優先する人。フェミニズムの象徴であると同時に、かなり危うい人物でもある。

今回もその危うさは残っていますが、単に「過激な母親」として出てくるだけではなく、エノーラを支える存在としてきちんと機能している。

 

このシリーズは、エノーラが一人で立つ物語でありながら、同時に「一人で立つこと」と「誰かの助けを借りること」は矛盾しない、という話でもあります。

その意味で、母親がちゃんと動いてくれるのは良かった。

ユードリアが出てくると、1作目から続いている「女性がどう生きるか」というテーマも、もう一度少し戻ってくる感じがありました。

 

そして、シリーズ3作目として考えれば、本作はこれで悪くない着地点です。

エノーラは結婚する。

ただし、「誰かのもの」になるわけではない。

ホームズであり続ける。

誰かと共に生きることと、自分を失うことは違う。結婚は自立の終わりではなく、自分のまま誰かと並んで歩くことでもあり得る。

 

面白いのは、この着地のために「変わる」のがエノーラではなく、テュークスベリーのほうだ、という点です。詳しくは書きませんが、彼は彼で、家の名前と自分自身との間で一つの選択をする。エノーラが自分を曲げて貴族の家に入るのではなく、二人がそれぞれ自分のままでいられる形を探す。

 

この着地は、1作目から続いてきた「エノーラは自分の人生を自分で選ぶ」というテーマに、きちんとつながっていると思います。

つまり本作は、事件そのものよりも、エノーラのシリーズとしての着地を見る映画だったのかもしれません。

 

ミステリーとしては雑。

ホームズものとしても、いろいろ言いたいことはある。

シャーロック、もうちょっと頑張ってくれよ、とも思う。

 

でも、エノーラというキャラクターを、少女探偵から、誰かと共に生きることを選ぶ一人の女性へと進める映画としては、まあ、きちんと役割を果たしていたんじゃないでしょうか。

 

そしてラストには、明らかに「まだ続くかも?」と思わせるようなカットも用意されていました。

モリアーティとの因縁も完全に終わったとは言い切れないし、エノーラとテュークスベリーの関係も、結婚したから物語終了、というより、むしろここから新しい形に入ったようにも見える。

シリーズとしては一応きれいに一区切りついているんだけれど、続編を作ろうと思えば十分作れる終わり方です。

 

まあ、ここまで来ると、次に何をやるのかはちょっと難しい気もします。

1作目は女性の自立。
2作目は労働と貧困。
3作目は帝国主義。

テーマがだんだん大きくなってきたぶん、次にまたさらに大きな社会問題を背負わせると、さすがにエノーラ本人から遠くなりすぎるかもしれない。

 

だから、もし4作目があるなら、もう少しエノーラ自身の事件に戻ってきてほしいです。

世界を背負う話ではなく、彼女が探偵として、妻として、ホームズとして、どういう人生を選んでいくのか。

そのあたりをもう一度、彼女の近くから見せてくれたらいい。

1作目ほどの切実さはない。

2作目ほどの社会問題と主人公の距離の近さもない。

でも、シリーズものとしては十分楽しめる。

そして何より、ミリー・ボビー・ブラウンのエノーラは、やっぱり魅力的です。

続編、ありそうですね。

あったら見るよ。

 

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読書録「7つの激変」:僕はやっぱり、作る側ではなく"使う側"としてネットを楽しんできたんだな

・7つの激変 いかがわしい者たちが主役の「インターネット産業」30年史
著者:川邊健太郎
出版:東洋経済新報社(Kindle版)

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川邊健太郎さんの『7つの激変』を読みました。

 

作品概要

『7つの激変』は、川邊健太郎さんによるインターネット産業30年史。検索、SNS、動画、通販、広告、文化、起業という7つの領域を通じて、インターネットが社会の周縁から中心へ移っていく過程を、当事者の視点から描く。

日本のネット産業が前半戦で持っていた熱気と可能性、そして2007年前後のスマホ・ソーシャル・クラウドの分水嶺以降、GAFAMに引き離されていった構造を振り返りながら、AI時代における次の「更地」をどう見るかを問う一冊。

 

ポイント

本書は、インターネット産業の30年を7つの「激変」から整理する。

検索は、誰も儲かると思っていなかった情報整理から、広告とAIの基盤になった。SNSは、友人の日常を見るだけのものから、人々の可処分時間とコミュニケーションを支配するインフラになった。動画は、無法地帯のような投稿文化から、YouTuberという新しい職業を生んだ。通販は、割に合わないと思われていたものから、生活インフラになった。広告は、センスと勘の世界から、データと数学の世界へ変わった。

そして日本では、2ちゃんねる、ニコ動、iモード、ガラケー文化など、独自の豊かなネット文化が生まれた一方で、スマホ・ソーシャル・クラウドという世界標準への転換で、GAFAMに大きく後れを取った。

著者は、勝敗を分けたのは「最初に思いついたか」ではなく、市場に定着するまで失敗を超えて改善し続ける力だったと見る。そしてAI時代を前に、次の30年の荒野を誰が耕すのか、という問いを投げかける。

副題は、
いかがわしい者たちが主役の「インターネット産業」30年史。

著者の川邊健太郎さんは、ヤフー、そしてLINEヤフーのトップを務めた人。まさに日本のインターネット産業のど真ん中を歩いてきた当事者です。

なので、本書は単なる「ネット昔話」ではありません。

あの時代に何が起きていたのか。
なぜ日本のネット企業は、ある時期までは面白い存在感を持っていたのに、やがてGAFAMに大きく引き離されていったのか。
そして、これからのAI時代に、また同じような変化が起きるのではないか。

そういうことを考えさせられる一冊でした。

 

僕はワープロ世代だった

僕は1988年に社会人になりました。

なので、川邊さんよりは少し年上になります。

学生時代は、パソコンを使っていませんでした。
卒論もワープロで書きました。

今から考えると、「パソコン以前」ではあるんですが、かといって完全に手書きでもない。
ワープロ世代、という感じですかね。

社会人になってから、Windows 95が出たタイミングでパソコンを買ったと思います。

当時は、PC-98にするかDOS/V機にするかで迷いました。
PC-98の方がゲームが多かったんですよねw

ただ、仕事での勧めもあって、たぶんDOS/V機にしたんだと思います。

その頃は、パソコン通信も少しやっていました。

ゲームの進捗を確認したり、攻略方法を調べたり。
あと、チャットのようなことも少しはしていた記憶があります。

ただ、そこまでどっぷりハマったわけではありません。

携帯電話も、わりと早く持った方だと思います。

でも、仕事の付き合いで持たされた面が強くて、実はあまり「携帯」していませんでした。
固定電話の横に置いてあるだけ、みたいな感じです。

iモードにも、僕はそこまではまりませんでした。

このあたりは、本書に出てくる日本のネット産業の熱気とは、少し距離があります。

もちろん、時代の空気としては知っている。
でも、自分自身がその中心にいたわけではない。

あくまで僕は、ネットの「作り手」ではなく、「使い手」だったんだなと、あらためて思いました。

 

僕にとっての分水嶺はiPhoneだった

僕が本当に携帯電話を持ち歩くようになったのは、iPhoneが出てからです。
初代の登場が2007年、日本に上陸したのは2008年のiPhone 3Gでした。

これは大きかったですね。

iPhone以降、僕は一気にその世界にどっぷりはまっていきます。

いまでもiPhoneを中心に、Apple製品にはかなり寄っています。
まあ、アップル信者に近いところはありますw

新しいガジェットにも興味があります。
スマホゲームはあまりやりませんが、デバイスとしてのスマホ、生活の中心にある端末としてのスマホには、かなり強く惹かれてきました。

そういう意味で、この本は僕にとって、ネット産業の歴史であると同時に、
自分がどうネットと付き合ってきたかを振り返る本
でもありました。

僕はコードを書いてきたわけではない。
ネットビジネスを立ち上げたわけでもない。
起業家でもない。

でも、検索を使い、通販を使い、動画を見て、SNSに触れ、スマホを持ち歩き、AIと遊んでいる。

完全に「消費者」なんだけど、消費者としてはかなりその変化を楽しんできた。
そのことを、ちょっと懐かしく思い出しました。

 

日本は「垂直統合」だから負けた、ではなかった

本書で面白かったのは、AppleやGoogleが出てきたときに、
なぜ日本のソニーはそこに行けなかったのか
という話です。

日本企業の敗因については、よくこう言われます。

日本企業は垂直統合にこだわりすぎた。
WindowsとIntelの水平分業の時代に対応できなかった。
だから負けたのだ、と。

僕もなんとなく、そういう理解をしていました。

ところが本書を読むと、話はむしろ逆なんですよね。

GoogleやAppleは、インターネット以後の世界で、ソフトウェアを起点にした新しい垂直統合を作り上げた。

検索、広告、OS、ブラウザ、クラウド、デバイス、アプリストア、決済、動画、SNS。
それらをバラバラの事業としてではなく、ユーザー接点とデータとソフトウェア基盤を押さえる形で統合していった。

つまり、古い垂直統合がダメだったのではない。
ソフトウェアを中心にした新しい垂直統合に、日本企業が乗り切れなかった
ということなんでしょう。

これは、僕にはけっこう意外でした。

ソニーがAppleになれなかった理由。
日本のネット企業がGAFAMを追いかけきれなかった理由。

そこには、単にハードが強いとか、サービスが面白いとかではなく、
ソフトウェアの産業構造をどこまで理解していたか
という問題があった。

ここは、本書の中でもかなり読みごたえのある部分でした。

 

文系起業家とソフトウェア屋の差

川邊さんは、日本のネット起業家の多くが文系・非エンジニアだったことにも触れています。

もちろん、それ自体が悪いわけではありません。
川邊さん自身も法学部出身です。

ただ、Googleのラリー・ペイジやセルゲイ・ブリン、Facebookのマーク・ザッカーバーグは、見た目はふわっとした若者でも、中身は根っからのソフトウェア屋だった。

この差が大きかった、という指摘です。

ソフトウェア屋は、
Winner takes all
収穫逓増
を、経済理論としてではなく、エンジニアリングの感覚として理解している。

一度ソフトウェア基盤を作ってしまえば、ユーザーが増えても追加コストは小さい。
だから、初期に市場を取りに行く。
赤字を掘ってでも投資する。
勝つまで改善し続ける。

この感覚が、日本のネット企業には弱かったのではないか。

ここも、なかなか刺さる話でした。

ただし、これを単純に「文系だからダメだった」と読むのは、少し雑だと思います。

市場規模も違う。
英語圏の強さもある。
資本量も違う。
VC文化も違う。
日本にはガラケーとiモードの成功体験もあった。

でもそれらを含めても、
ソフトウェアを単なる機能ではなく、産業構造そのものとして見ていたかどうか
という差は、確かにあったんだろうなと思います。

 

勝負は最初に思いついたかではない

本書で印象に残ったのは、
勝負は「誰が最初に思いついたか」でも「誰が最初に作ったか」でもない
という話です。

1995年から97年頃には、検索、動画、EC、決済、広告、SNS的なコミュニティなど、現在のネット産業の原型は、だいたい出そろっていた。

でも、その最初の3年で思いついた人が、その後の勝者になったわけではない。

技術が未熟でも、ユーザー数が伸びなくても、規制の壁があっても、失敗を重ねても、
「これは世界を変える」と信じて、しつこく改善し続けられるかどうか。

そこが勝負を分けた。

これは、いまのAIにもそのままつながる話だと思います。

今のAIも、毎日のように新しいサービスが出てきます。
でも、おそらくその多くは消えていく。
逆に、いまはまだ「しょぼい」と思われているものの中から、次の大きなサービスが出てくるかもしれない。

最初に思いつくことよりも、
作り続けること。
使われるまで粘ること。
市場に定着するまで改善すること。

まあ、これは言うのは簡単ですが、やるのは大変です。

だからこそ、実際にやる人はすごいんですよね。

 

川邊さんがAIに全振りしているのが面白い

本書を読んでいて、もう一つ面白かったのは、川邊さん自身がいまAIに全振りしていることです。

LINEヤフーの会長まで務めた人が、その立場を離れて、AIと二人で起業しようとして、AIの世界に入っていく。

これはなかなかすごいです。

インターネットが出てきたときに、若者たちが「なんだか分からないけど面白い」と飛び込んでいった。
川邊さんは、AIに対してもう一度それをやろうとしている。

しかも、過去のネット産業の経験をそのまま使おうとしているわけではない。

むしろ、ネットの経験は「きれいさっぱり忘れる」と言って、AIをインターネットの延長ではなく、新しい更地として見ている。

ここが面白いんですよね。

僕は、AIを使って起業することはないと思います。
これから会社を作って、AIで世の中を変えるぞ、という感じではありません。

でも、AIにはかなり期待しています。

何か新しいことが起きるんじゃないか。
自分の生活や趣味や考え方が、また少し変わるんじゃないか。
そういう感覚はあります。

だから、川邊さんがAIにどっぷりはまっていこうとしている姿には、かなり共感しました。

もちろん、立場は全然違います。

川邊さんは作る側に行く。
僕は使う側にいる。

でも、
「これは面白そうだ」
「もう少し触ってみたい」
「何が起きるのか見てみたい」
という気持ちは、たぶん同じ方向を向いているんじゃないかなと思います。

 

僕は、これからも消費者として楽しむ

この本を読んで、少し寂しく感じたところもあります。

結局、僕はインターネットの作り手ではなかった。
コードを書く側でも、起業する側でも、サービスを作る側でもなかった。

パソコン通信を少し触り、Windows 95でパソコンを買い、iPhoneでスマホにどっぷりはまり、いまAIと遊んでいる。

ずっと、使う側です。

でも、それでいいのかなとも思います。

インターネット産業を作ってきた人たちがいる。
その人たちの熱狂や失敗や成功がある。
その結果として、僕たちは検索し、買い物し、動画を見て、SNSでつながり、AIに相談している。

その変化を、消費者として体験してきたことにも、それなりの面白さはある。

そして、AI時代もたぶん同じです。

僕はAIで起業はしない。
でも、AIを使って文章を書いたり、考えを整理したり、画像を作ったり、日々の生活の中で遊んだりする。

作る側ではなく、使う側として楽しむ。

それはそれで、かなり贅沢な立ち位置なのかもしれません。

 

ネットの30年史であり、AI時代への前振りでもある

『7つの激変』は、ネットの30年史として読めます。

Yahoo!、楽天、サイバーエージェント、Google、Facebook、Amazon、YouTube、iモード、ニコ動、2ちゃんねる。
いろいろな名前が出てきて、懐かしくもあります。

でも、この本の本当の射程は、過去ではなく未来なんでしょう。

1995年から97年頃に、今のネット産業の原型がほぼ出そろっていた。
2007年前後に、スマホ・ソーシャル・クラウドという分水嶺が来た。
そこで日本企業はGAFAMに大きく引き離された。

では、AIという新しい分水嶺ではどうなるのか。

誰が最初に思いついたかではない。
誰が最初に作ったかでもない。
誰がしつこく耕し続けるのか。

この問いが、本書の最後に残ります。

僕自身は、その荒野を耕す側には行かないと思います。

でも、誰かが耕しているのを見ながら、たまにそこに足を踏み入れて、
「おお、これは面白いな」
と言っているくらいが、自分には合っている気がします。

それは少し受け身なのかもしれません。

でも、ネットもAIも、僕にとってはまず楽しいものです。

作る人がいて、使う人がいる。
僕はたぶん、これからも後者です。

そして、後者としてこの30年を振り返るには、この本はかなり面白い一冊でした。

 

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