鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

映画評『劇場版「緊急取調室 THE FINAL」』:最後に問われる「正しさ」とは何か

『緊急取調室』は、シーズン1と2までは見ていたんですが、その後のシーズン3〜5やスペシャルドラマは全部を追えていたわけではありません。

ただ、今回の『劇場版「緊急取調室 THE FINAL」』がシリーズの完結編だということで、Prime Videoで見放題になっているのを見つけ、「まあ最後なら見ておこうか」と思って鑑賞しました。

結果としては、全部のシリーズを追えていなかった僕でも十分楽しめました。

もちろん長年見続けてきた人のほうが、登場人物同士の関係や積み重ねに対する感慨はずっと大きいでしょう。それでも、映画一本の物語としてかなりきちんと成立していたと思います。

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取調室の映画なのに、やたらスケールが大きい

『緊急取調室』といえば、基本的には取調室という閉じた空間で、被疑者と言葉を交わしながら真実を引き出していくドラマです。

ところが今回、その相手がなんと内閣総理大臣。

超大型台風が日本を襲い、国家的な危機対応が続くなか、総理大臣・長内洋次郎に「空白の10分」が発生します。そして、その10分を追及する男・森下弘道が総理を襲撃。真壁有希子たちキントリが森下を取り調べるところから物語は始まります。公式にも、映画は12年間続いたシリーズの集大成として位置付けられています。

いやいや、取調室の話だったよね、と思うくらいスケールが大きい(笑)。

総理大臣、巨大台風、国家危機、政治権力。

でも不思議と『緊急取調室』から離れた感じはしませんでした。

結局のところ最後にやることは、相手の肩書きを全部剥がして、取調室の中で一人の人間として向き合うことだからです。

「過去に罪を犯した有能な政治家」をどう扱うのか

一番面白いと思ったのは、事件の謎そのものより、この映画が突きつけてくるテーマでした。

長内は過去に重大な出来事に関わり、その事実を仲間たちと隠してきた人物です。

しかし、その後は政治家となり、最終的には総理大臣まで上り詰めています。

しかも単なる悪徳政治家として描かれているわけではありません。

現実に国家の危機に向き合い、国民のために判断し、リーダーシップを発揮する人物でもある。

ここが面白い。

つまり映画が問うているのは、

過去に重大な罪を犯し、それを隠した人間が、その後は社会にとって有能で必要な人物になっていた場合、それでも過去の罪によって断罪されるべきなのか。

という問題です。

簡単な話ではありません。

「罪を犯したんだから裁かれて当然だ」で終わらせることもできる。

でも一方で、その人間が今まさに大勢の国民を守る責任を背負っていて、実際にその仕事を果たしているとしたらどうなのか。

長内自身もその論理に立っています。

だからこそ、単なる「悪い総理をキントリがやっつける」という話にはならない。

ここにはかなりちゃんとした葛藤があります。


シーズン1に戻ってくる構造が面白い

特に感心したのが、このテーマがシリーズの原点につながっていることです。

シーズン1では、真壁有希子の亡くなった夫・匡が、警察内部の不正を暴こうとしていたことが物語の重要な軸になっていました。

真壁を警視庁に引き上げた上司でもある郷原政直も、その不正や隠蔽に深く関わる人物として登場します。真壁にとって郷原は、刑事としての恩人である一方、夫の死につながる警察組織の闇を象徴する人物でもあります。真壁自身も、夫が警察内部の不正を暴こうとして亡くなったことから、「身内だから信用する」という立場には立てない人物として描かれてきました。

つまりシリーズの最初からあったのは、

組織を守るためなら、真実を隠していいのか。

という問いだったんですよね。

警察組織の上層部が腐敗しているとき、その組織に属する人間はどう行動すべきなのか。

それがシリーズ最終作では、一気に国家レベルまで拡大されます。

今度の相手は警察の幹部ではない。

国のトップである総理大臣です。

でも問われていることは、実は同じなんですよね。

権力や肩書きよりも、真実を優先できるのか。

組織や国家にとって「必要な人物」であることが、個人の罪を免責する理由になるのか。

シーズン1で始まったテーマが、最後に最大のスケールになって戻ってくる。

これはかなり見事なシリーズ構成だと思いました。


郷原が出てくる意味

だから、今回の映画に郷原(草刈正雄)が再登場するのも単なるファンサービスではありません。

僕はシーズン1を見ていたので、ここは結構響きました。

郷原は真壁にとって、警察という組織の矛盾そのもののような存在です。

真壁を刑事として評価し、引き上げた人物でありながら、同時に夫の死につながる不正と隠蔽にも関係している。

その郷原が、シリーズ最後の「総理大臣を取り調べる」という事件に再び関わる。

これはかなり象徴的です。

真壁は12年間、結局ずっと同じ問題と戦っていたとも言えます。

組織の論理と、個人としての正義。

相手が警察でも総理でも、その問い自体は変わらない。


難産だった映画を、それでも完成させた意味

この映画は制作そのものもかなり大変だった作品です。

もともと2023年公開予定だった劇場版は公開延期となり、その後、石丸幹二を長内総理役として新たに迎えて再始動しました。再始動に際しては脚本も大幅に改稿され、再撮影が行われています。

当初の総理役は市川猿之助でした。
まあこのテーマですからね。
コリャ使えない。

そこから公開延期、キャスト変更、大幅な撮り直し。

普通なら、そのままお蔵入りになってもおかしくないくらいの事態だったと思います。

それでも制作陣やキャストが「シリーズをちゃんと終わらせる」という方向を選んだ。

実際、天海祐希も再始動時のコメントで、スタッフ・キャスト一同が映画を観客に届けたいと思い続けていたことを語っています。

この映画を見終わると、それだけのことをしてでも世に出したかった理由は分かる気がします。

単なる劇場版の一本ではなく、12年間続いた作品の「終わり」をちゃんと作る必要があったんでしょうね。


大杉漣がいない寂しさ

一方で、どうしても寂しいのは大杉漣さんがもういないことです。

初期のキントリでは、大杉漣演じる中田善次郎、小日向文世演じる小石川春夫、でんでん演じる菱本進らの掛け合いが、作品の大きな魅力でした。第1話から、このクセの強いメンバーたちと真壁がぶつかりながらチームになっていくところがシリーズのスタートでした。

だから、本当なら最後にあのメンバーが全員そろっているところを見たかった。

それはもうどうしようもありません。

でも、だからこそ残ったキャストとスタッフでシリーズの最後までたどり着いたこと自体には意味があると思います。

制作側にも出演者にも、それぞれこの作品に対する思いがあったんでしょう。

そういう意味でも、それに応える形の最終作にはなっていたと思います。


もちろん突っ込みどころはある

もちろん、映画として突っ込みどころはかなりあります(笑)。

現職総理をどうやって取調室まで連れてくるんだとか、25年前の事件の証拠はそれで大丈夫なのかとか、森下の計画はあまりにも回りくどくないかとか。

現実の警察捜査として考え始めると、相当に無理があります。

ただ、このシリーズはもともとリアルな捜査手続を精密に描くドラマではなく、

取調室という密室で、人間の嘘や本音を剥がしていく

ことを中心にした作品です。

公式も「取調室」という密室で行われる、生身の人間同士の心理戦をシリーズの基本として説明しています。

だから最終作としては、リアリティを多少犠牲にしてでも、

最後に総理大臣を取調室に座らせる。

これをやりたかったんでしょう。

その選択はアリだと思います。


シリーズを追った人向け。でも一本の映画としても成立している

僕自身、シーズン1、2までは見ていますが、シーズン3、4、5やスペシャルを全部追っているわけではありません。

実際、『緊急取調室』は2014年の第1シーズン以降、連続ドラマ5シーズンとスペシャルドラマを重ねて、この映画で12年間のシリーズを完結させています。

なので、当然ながらシリーズをずっと追ってきた人向けの作品ではあります。

キャラクター同士の関係や細かな回収については、僕が気づいていないものもかなりあるはずです。

だからといって、

「じゃあシーズン3から5まで全部見直そう」

とは、さすがにならない(笑)。

ただ、シーズン1を見ていたことはかなり大きかったですね。

真壁の夫のこと。

郷原との関係。

警察という組織に対する真壁の距離感。

そこを知っていれば、この映画が単なる「総理大臣VSキントリ」ではなく、シリーズの原点に戻っていく物語だということは十分理解できます。


『踊る大捜査線』より単体映画としてまとまっていた

最近『踊る大捜査線』シリーズも見返していたので、どうしても比べてしまいます。

もちろん作品の方向性はかなり違います。

ただ劇場版単体の作品としての完成度という意味では、今回の『緊急取調室 THE FINAL』のほうがまとまってますわね。

『踊る』は長年の人物関係やシリーズの積み重ねが非常に大きく、その文脈込みで楽しむ作品です。

それに比べると『緊急取調室 THE FINAL』は、

長内と森下の25年前の事件

という映画独自の軸が一本通っています。

だからシリーズを全部知らなくても、とりあえず一本のサスペンスとして追える。

そのうえでシリーズを知っている人には、真壁や郷原、キントリというチームが積み重ねてきた12年間が重なってくる。

その二重構造は、なかなかうまくできていたと思います。


最後まで「正しさ」を簡単に決めない

この映画で一番評価したいのは、結局ここです。

テーマに対して簡単な答えを出していない。

長内の過去の罪は消えない。

隠蔽も正当化できない。

でも、その後の彼が政治家として国民のために働いてきたことまで全部嘘になるわけでもない。

この二つは同時に成立するんですよね。

人間は「善人」か「悪人」か、そんな簡単には分けられない。

過去に罪を犯した人間が、その後に善いことをすることもある。

逆もある。

そのとき社会は、その人間をどう扱うのか。

そして本人は、自分の過去とどう向き合うのか。

映画は最終的に、司法的な決着以上に、本人が自分の罪と向き合うことを重要なところに置いています。

この結論には異論もあるでしょう。

「そんなことで済むのか」と思う人もいるでしょうし、僕自身、全面的に納得しているわけではありません。

でも、そういう異論が出るところまで含めて、映画のテーマとしては面白かった。

ただ悪人を倒してスッキリ、ではなく、

「では、正義とは何なのか」

という少し面倒なものを最後に残して終わる。

シリーズ最終作として、これは悪くない終わり方だったと思います。

いろいろ突っ込みながら見ましたが、それでも最後には、

「ちゃんと終わらせたな」

という感覚が残りました。

全部のシリーズを追い直すところまではいかないけれど(笑)、12年間続いた『緊急取調室』の最後を見届けておいてよかった。

そんな作品でした。

 

#映画感想文
#緊急取調室
#thefinal

映画評『免許返納!?』:70歳で返納は早くない? でも、このドタバタは結構好きでした

『免許がない!』は確かに昔見たはずなんですが、正直なところ、ほとんど記憶に残っていません。

今回『免許返納!?』を見るにあたって、あらすじを調べ直してみても、「ああ、そうだったそうだった」と鮮明に蘇ってくるほどではありませんでした。

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ちなみに僕はずっと「森田芳光の『免許がない!』」という印象を持っていたんですが、正確には1994年公開の『免許がない!』は明石知幸監督、森田芳光脚本。舘ひろし演じる映画スター・南条弘が、40歳を過ぎて運転免許を取るため自動車学校で悪戦苦闘するコメディでした。

記憶では、森田芳光らしいクセは比較的抑えめで、わりとストレートな商業エンタメだったような気がします。まあ、そこまで覚えていないので、これはあくまで僕の曖昧な印象ですが。

そして30年以上たった今回、同じ南条弘が今度は「免許を返納するのか」という話になります。

 

ただ最初、素直に「続編」だと思っていたんですが、舘ひろし自身はインタビューで「続編ではない」とはっきり話しています。『免許がない!』へのオマージュとして、同じ南条弘というキャラクターを30年ぶりに復活させた作品、という位置づけのようです。舘自身も、森田芳光へのオマージュという意識で取り組んだと語っています。


今度は「免許を返せ」と言われる南条弘

『免許返納!?』の南条弘は70歳。

まだまだアクション映画をやりたい大スターなんですが、俳優仲間が起こしたバイク事故について何気なくコメントしたことがきっかけで、本人の意図とは全然違う方向に話が転がっていきます。

世間からは、

「南条弘も免許を返納するんですね」

という空気になってしまう。

本人には、そんなつもりはまったくない。

そこから免許返納をめぐるドタバタが始まります。監督は河合勇人、脚本は林民夫。共演には西野七瀬、黒川想矢、南野陽子、大地真央、真矢ミキ、吉田鋼太郎、宇崎竜童らが並びます。

見る前は、正直「これ、2時間持つのかな」とちょっと思っていました。

免許返納という一発ネタだけで最後まで押し切るのは、さすがにしんどそうだからです。

でも実際に見てみると、結構面白かった。


途中からロードムービーになるのが良かった

この映画、前半はほぼ「免許返納をめぐるドタバタコメディ」なんですが、途中から少し雰囲気が変わります。

南条が若者と関わり、その事情を追いながら旅をするようになって、ロードムービーっぽい映画になっていく。

ここが思ったより良かったです。

免許を返す・返さないだけをずっとやっていたら、おそらく途中で飽きていたと思うんですよね。

そこから「旅」に切り替わることで、登場人物同士の関係が少しずつ見えてきて、映画として広がりが出てくる。

親世代と若い世代の話にもなっているし、南条自身がこれまでの人生を振り返る話にもなっていく。

ものすごく深いテーマを掘り下げる映画ではないんですが、だからこそ、この程度の軽さがちょうど良かった気もします。


ほとんど「舘ひろし祭り」です

一方で、この映画の好き嫌いが一番分かれそうなのは、やっぱりここでしょう。

舘ひろしオマージュがものすごく強い。

車、バイク、銃、アクションスター、ちょっとキザで格好いい男。

さらに『あぶない刑事』をはじめ、往年の東映作品を思わせる仕掛けもかなり入っています。

実際、『トラック野郎』や『二百三高地』、『スケバン刑事』などへの連想を指摘する鑑賞者もいて、かなり意識的に「昭和から続く東映娯楽映画」の記憶を盛り込んだ作品になっています。

ここは、やりすぎと思う人もいるでしょうね。

でも僕は、この映画ならそれでいいと思いました。

そもそも舘ひろしが70歳の映画スターを演じ、「まだアクションをやりたい」と言っている時点で、現実の舘ひろし本人と南条弘がかなり重なって見える。

だったら中途半端に普通のドラマをやるより、

「もう舘ひろしを全部乗せしてしまえ」

くらいの方が、この企画には合っています。

その意味では、方向性として間違っていなかったと思います。


役者がちゃんとしているのも大きい

それでも単なるお祭り映画に見えなかったのは、出演者が結構しっかりしているからでしょう。

西野七瀬、黒川想矢、宇崎竜童、大地真央、真矢ミキ、吉田鋼太郎、南野陽子など、かなり実力のある俳優が揃っています。

特に良かったのは、変に若い女性との恋愛みたいな方向へ行かなかったことです。

70歳のスターと若い女性マネージャー。

この設定だけを見ると、下手をすると妙な恋愛要素を入れたくなりそうなんですが、そこには行かない。

むしろ南条と若い世代との距離や、昔からの仲間との関係を描いていく。

その方がずっと自然でした。

僕自身、恋愛を絡めた「まだまだ男として現役ですよ」という話より、年を取った男が、これまでの人生とどう折り合いをつけるかという話になったことの方が良かったと思っています。


派手ではないけど、こういう映画は悪くない

もちろん、何かものすごい新しいものを見せてくれる映画ではありません。

物語もかなりベタだし、突っ込みどころもあります。

でも、逆にそこを変に難しくしない。

ドタバタコメディとして始まり、途中からロードムービーになって、最後は年齢や人生の区切りというところに着地する。

全体としてタイトにまとめられていて、娯楽映画としてちゃんと成立していました。

実際、公開後10日あまりで動員31万人、興行収入4億円を超えたと公式発表されています。ものすごい社会現象になるタイプではないにしても、一定の観客にはきちんと届いた作品だったようです。

僕としては、

「こういう映画は、たまにあっていいよな」

という感じでした。


ただ、70歳で免許返納は早くない?

そして、この映画を見ながら僕が一番思ったのは、結局これです。

70歳で免許返納って、早くない?

僕はいま61歳なので、70歳といっても、もうそれほど遠い未来には感じません。

もちろん実際の免許返納は年齢だけで決める話ではないし、身体能力や認知機能、生活環境によって人それぞれでしょう。

でも、「70歳になったから、そろそろ返しましょう」と言われると、

いやいや、まだちょっと待ってよ、

と思ってしまう(笑)。

この映画の南条が「まだ返したくない」と抵抗する気持ちは、僕にはかなりよく分かりました。

だからこそ僕が本当に期待しているのは、

免許を返納しなければならなくなるより先に、完全自動運転が普通になっていること。

自分で運転できなくなったら移動の自由まで失う、という時代ではなくなっていてほしい。

映画を見終わって一番現実的に考えたのは、実はそこでした。

『免許返納!?』は、大作でも傑作でもないと思います。

でも、舘ひろしというスターをここまで徹底的に使い切りながら、老いとか世代交代とか、人生の区切りみたいなものまで軽く忍ばせている。

僕は結構好きでした。

そしてやっぱり最後にもう一度言いたい。

70歳で返納は、まだ早くね?


#映画感想文
#免許返納
#舘ひろし

 

読書録「知的生産のセンス」:AIに任せた先の「センス」は、どう育つのか

・知的生産のセンス
著者:楠木建、山口周
出版:日経BP 日本経済新聞出版

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楠木建さんと山口周さんの対談集です。
読みやすく、なかなか面白かったです。
生成AIが出てきた現在、二人が自分たちの仕事の仕方を改めて整理してみた、という本だと僕は受け取りました。

読み終えてまず思ったのは、「そうだよね」ということ。目新しい結論に驚いたというより、今の僕が生成AIを使いながら考えていることを、かなりきれいに言葉にしてくれた感じです。
ただ、中心に据えられた「センス」については、最後まで少し引っかかりました。

 

■ AIができることの先に、何が残るのか

二人は以前にも『「仕事ができる」とはどういうことか?』で、スキルとセンスについて語っているそうです(読んでないけどw)。
本書はその議論を、生成AIが使えるようになった時代の「知的生産」に引き寄せたものです。

本書では知的生産を、
情報を取り込む「入力」、
材料を蓄える「保存」、
考えに変える「変換」、
人に届ける「出力」
の四つに分けています。
調べたり、整理したり、論理的な文章にしたりする作業は、生成AIにかなり任せられるようになった。では人間は何をするのか。何を問題にするか、どこに論点を見いだすか、材料をどう結びつけて自分の見解にするか。
そこに二人のいう「センス」が出てきます。

特に「変換」という言葉は、うまい整理だと思いました。情報を集めるだけでは、まだ自分の考えにはなっていない。ありきたりの答えを並べるところから一歩進んで、意外なつながりや、少し飛躍のある見方を見つける。そこに知的生産の面白さがある、という話です。

もっとも、この方向性自体は、今やそれほど珍しい主張ではありません。
AIに作業を任せ、人間は問いや判断を担う。
本書の良さは、その標語を唱えるだけで終わらず、二人が実際に何を入力し、何を残し、どう考えて出しているかという仕事の手触りに落としているところでしょう。

 

■ 二人の違いと、僕の使い方

面白かったのは、二人が同じ結論から同じ使い方に行き着いているわけではないことです。僕が読んだ限りでは、楠木さんは調べものを中心にAIを使い、文章を書くことにはあまり任せない。山口さんは構成や草稿、表現を整えるところまで、もっと積極的に使っている。公開された対談でも、山口さん自身が書籍やスピーチなどのドラフト作成に使っていると話しています。

どこまで任せるかは、その人の仕事と好みで変わるのでしょう。
僕は商業出版のために書いているわけではなく、自分の記憶や考えを整理するためにもAIを使っています。話しながら考えを出し、記事の形にしてもらい、そこで「いや、そこは違う」と直すこともある。AIにどこまでできるのかを試している面もあります。

本書を読んで、新しい手順をすぐ取り入れたいとは思いませんでした。むしろ今のやり方も、おかしなものではないと確認できた感じです。
そのうえで、自分のための文章なら、もう少し思い切ってAIに任せてもいいのかもしれない、とも思いました。任せる量を増やすことと、自分の判断を手放すことは同じではありません。

生成AIについて、誤りやハルシネーションの話だけで議論が止まらないのもよかったです。もちろん事実確認は必要ですし、誤りがなくなると考えているわけではありません。それを踏まえてなお、今のAIは知的生産の作業に十分使える。
その現実から話を始めているので、僕には納得感がありましたね。

 

■ 「センス」は、どうやって身につくのか

ただ、この本で一番大きく掲げられている「センス」には、やはり難しさがあります。二人の判断の背後には、これまでに読んだもの、経験した仕事、会った人、考え続けてきた時間があるはずです。同じ本を読み、同じ道具を使ったとしても、二人と同じ発想になるわけではありません。

本書には、読書や人との対話、現場で経験を積み、出したものへの反応に触れるといった話もあります。だから「センスの育て方が一切書かれていない」と言いたいわけではない。ただ、そうした実践を重ねることと、二人が見せているような厚みのある判断ができることの間には、まだ距離があるように感じました。

今の僕なら、二人の話を聞いて「ああ、そういうことか」と思えるところがあります。でも、これを10代や20代の人が読んだらどうだろう。「センスが大事なのは分かった。では、自分は明日からどうすればいいのか」と感じるかもしれません。
二人のやり方をそのまま再現できないところに本書の面白さもあるけれど、実用書として読むなら、そこが弱点にもなると思います。

この点では、以前読んだ山口さんの人文知をめぐる本にも通じる引っかかりを覚えました。見方を提示する力は面白い。一方で、その見方をどこまで根拠づけられるのか、他の人にも使える形で渡せるのかは、別に考えたくなるんです。

 

■ 同じ場所から、違うところへ

楠木さんは僕と同じ年次に同じ大学で過ごした人です。本書を読みながら、同じ時代、同じ場所にいても、学問の受け取り方はずいぶん違ったんだなと思いました。それがその後の仕事や、ものの見方の違いにもつながっているのかもしれません。

別にそこで反省したり、後悔したりしているわけではありません。ただ、行き着いたところの差のようなものは感じました。そして、その差を簡単な方法で埋められないからこそ、「センス」という言葉に納得しながらも引っかかるのだと思います。

生成AI時代の知的生産を考える本として、本書はよく整理されていて面白かったです。僕自身のAIの使い方を見直すというより、今やっていることを確認し、もう少し自由に試してもいいと思えた読書でした。
同時に、人それぞれの蓄積から生まれるセンスを、これから経験を積む人にどう手渡せるのか。
その問いは残っています。

 


ってな感じで、この読書録は論点のポイントと方向性を僕が口頭でバーッと喋ったのをベースに、ChatGPT Voiceで感想を話し合ったものを最終的に読書録としてまとめたものです。
センスは…ないかもねw。


参照:日本経済新聞出版『知的生産のセンス』書籍紹介・目次
https://bookplus.nikkei.com/atcl/catalog/26/06/29/02681/
参照:日経BOOKプラス「はじめに:楠木建&山口周『知的生産のセンス』」
https://bookplus.nikkei.com/atcl/column/032900009/080701358/
参照:日経BOOKプラス「生成AIが照らす知的生産の本質 人間の本領は『統合』にある」
https://bookplus.nikkei.com/atcl/column/082100761/082100003/

#読書感想文
#知的生産のセンス
#楠木建・山口周

読書録「シャーロック・ホームズとシャドウェルの影」:面白い再解釈、でも推理は少し物足りない

・シャーロック・ホームズとシャドウェルの影

著者:ジェイムズ・ラヴグローヴ 訳:日暮雅通
出版:早川書房(Kindle版)

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シャーロック・ホームズとクトゥルー神話を組み合わせた小説です。最初は「ホームズに怪物を登場させる」という変わり種なのかなと思ったのですが、読んでみると、もう少し踏み込んだ作品でした。

本作が描くのは、ホームズとワトスンが出会ったばかりの1880年。ワトスンはロンドンのシャドウェル地区で起きた不可解な事件を追うホームズと出会い、やがて二人は、人間の犯罪だけでは説明できないものに近づいていきます。コナン・ドイルの『緋色の研究』をそのまま怪奇小説に置き換えるのではなく、二人の出会いから別の背景を与えて、ホームズ物語全体を読み直そうとする話です。(hayakawa-online.co.jp, hayakawabooks.com)

 

推理より、冒険の面白さ

ホームズといえば、鋭い観察と推理。僕もそこを期待して読みました。ただ、本作では、手がかりを積み重ねて謎を解く面白さは、それほど強くありません。事件を追っているうちに恐ろしい世界へ踏み込んでいく、冒険と怪奇の勢いのほうが前に出ています。

ここは、弱さといえば弱さだと思います。「ホームズの推理をじっくり読みたい」という気持ちで手に取ると、少し物足りない。

でも、考えてみれば、原典のホームズ物語も推理一辺倒ではありません。変装したり、街を駆け回ったり、危険な相手を追い詰めたりする。長編には、事件の背景をたどる長い回想や、ロマンス小説のような部分もあります。僕が原典で楽しんできたものの中には、そういう冒険小説的な面白さもあったんですよね。

本作は、その部分をクトゥルー神話の恐怖で大きく膨らませている。そう考えると、この組み合わせにも納得できました。ただ、冒険として楽しめたことと、推理小説としての物足りなさは、僕の中では別々に残っています。

 

知らない世界を調べながら読む

実は僕、クトゥルー神話にはあまり詳しくありません。面白そうだとは思っていたものの、子どものころは何となく、おどろおどろしそうで手を出さなかったんです。

だから本作でも、最初から「ああ、あれが出てきた」と分かる読み方はできませんでした。途中でChatGPTに聞きながら、神話の背景や名前を少しずつ確かめて読み進めました。そうすると、目の前の怪異だけを追っていたときには見えなかった、物語の裏側が少しずつ見えてくる。

知識があれば最初から気づける仕掛けも、きっとあったと思います。でも、知らないまま読んで、気になったところを調べて、また物語へ戻る。その読み方も、今回は面白かったです。

 

ここからモリアーティに触れます

もう一つ印象に残ったのが、モリアーティの登場です。

原典でのモリアーティは、ホームズ最大の敵として語られるわりに、読者の前にはかなり唐突に姿を現す印象があります。本作は、ホームズとワトスンが出会ったばかりの時期を描く物語に彼を登場させることで、その後の対決に向けて一本、太い柱を通しています。原典では語られなかった「その間にも何かがあったのではないか」と想像させる、エピソード0のような作りです。(hayakawabooks.com, arthur-conan-doyle.com)

この発想は面白いと思いました。ホームズとクトゥルー神話を一つの事件で交差させるだけでなく、原典で知っている人物や出来事まで、別のつながりの中に置き直していく。そこに、このシリーズを続けていくための仕掛けがあるのでしょう。

一方で、モリアーティを早くから配置したことを、僕はまだ手放しで「うまい」とは言い切れません。再解釈として面白いのは確か。でも、それがこの先の物語でどれだけ効いてくるのかは、続刊を読んでから判断したいところです。

 

推理小説としては少し物足りない。それでも、ホームズ物語がもともと持っていた冒険の楽しさを、クトゥルー神話と結びつけて広げる試みは面白かったです。僕にとっては、知っているはずのホームズの世界の下に、もう一つ別の世界があるかもしれない――そんな気分で読み終えた一冊でした。

 

#読書感想文
#シャーロック・ホームズとシャドウェルの影
#ジェイムズ・ラヴグローヴ

映画評『リサ・ラーソンがいた時間』:思っていた映画とは違った。でも、これはこれで深く残る

もともとリサ・ラーソンは妻が大好きで、家にもいくつか作品があります。

なので僕自身も昔から馴染みはあるし、あの独特の丸みのある造形や、ちょっととぼけたような表情の動物たちは好きなんですよね。

そんなリサ・ラーソンの映画ができたというので、これは観ておこうと思って『リサ・ラーソンがいた時間』を観てきました。

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で、最初に言ってしまうと、

僕が思っていた映画とは、だいぶ違いました。

悪かったという意味ではありません。

ただ、てっきり僕は、

「リサ・ラーソンはどういう人生を歩んできたのか」
「どうやってあの作品が生まれたのか」
「グスタフスベリではどんな仕事をしていたのか」

みたいな話を、代表作と一緒に年代順に見せてくれる、いわゆるアーティストの評伝ドキュメンタリーみたいなものを想像していたんです。

もちろん、そういう話も出てきます。

でもこの映画の中心は、そこではありませんでした。

 

孫が8年間撮り続けた「祖母」の映画

『リサ・ラーソンがいた時間』は、スウェーデンを代表する陶芸家リサ・ラーソンの晩年を、孫のエミリア・エクマン・ラーソンが撮ったドキュメンタリーです。

エミリアは2017年から約8年間にわたり、祖母にカメラを向け続けました。

リサは1931年生まれ。1954年にグスタフスベリに入り、スティグ・リンドベリらとともに同社の黄金期を支えます。日本でもおなじみの猫やライオン、子どもたちのシリーズなど、膨大な作品を残しました。そして2024年、92歳で亡くなっています。

ただし映画は、その90年以上の人生を順番に紹介する作りではありません。

若い頃の映像や写真が入り、本人が過去を振り返る場面もあるのですが、それはあくまで現在のリサの生活の中に差し込まれてくる。

僕には、どちらかというと

「孫が撮り続けた祖母のホームビデオを、一本の映画として仕上げたもの」

に近く感じました。

もちろん普通のホームビデオとは全然違います。

撮られているのはリサ・ラーソンですから、制作に対する考え方や、芸術家として生きることについての言葉が自然に出てくる。

でも主役なのは「偉大な陶芸家の業績」ではなく、明らかに晩年のリサその人なんですよね。

グンナルが亡くなってから、映画の意味が変わってくる

そして僕が一番強く感じたのは、夫のグンナル・ラーソンが亡くなった後でした。

グンナル自身も画家や版画家として活動した芸術家で、リサとは70年近く一緒に暮らしています。リサはグンナルについて、自分の作品の良し悪しをすぐ見抜いてくれる大切な批評家だったとも語っています。

二人は単なる夫婦ではなく、創作のパートナーでもあったんでしょう。

本人たちも「運命の人」というような捉え方をしていました。

そのグンナルが2020年に亡くなる。

そこからのリサの姿は、結構つらいものがあります。

とにかく孤独なんですよね。

ただ、その一方で創作欲はなくならない。

むしろ僕には、

孤独だからこそ、作ることに頼っていたんじゃないかな

とも見えました。

二人で入っていた施設から、グンナルが亡くなったあと自宅に戻る。

これも僕の解釈ですけれど、あの家には夫との記憶もあるし、何より自分が作ってきた場所でもある。

だから最後は、

「もう一度、ここで作りたい」

という気持ちがあったんじゃないかなと思いました。

 

創作欲は残る。でも身体はついてこない

一方で、ここは結構容赦なく映します。

リサは2024年に92歳で亡くなります。

当然ながら90歳を過ぎれば、身体は少しずつ動かなくなる。

記憶も曖昧になる。

話していたことを忘れたり、昔のことがうまく出てこなかったりする。

本人の中には、

「あれも作りたい」
「まだこれもやりたい」

というものがあるのに、身体がそれについてこない。

実際、90歳前後のインタビューでも、リサは体調が落ちている中でなお、「まだアイデアがたくさんあるのに、どうやって間に合わせればいいんだろう」という趣旨のことを話しています。

映画でも、そういう部分は結構そのまま出てきます。

僕の母親が今85歳で一人暮らしをしていることもあって、ここはどうしても重なりました。

正直、

ちょっと見ていられないな

と思うところもありましたね。

老いるというのはこういうことなんだな、と。

映画だからきれいにまとめるわけでもない。

芸術家だから最後まで格好よく描くわけでもない。

できなくなっていくことまで映す。

そこは結構残酷です。

 

妻は「思っていた通りの人だった」と

一緒に観た妻は、

「リサ・ラーソンさんって、やっぱり思っていた通りの人だった」

というようなことを言っていました。

これは面白い感想だと思います。

妻は昔から作品が好きで、実際に家にもいくつかある。

そういう人からすると、

「あの作品を作っていた人は、本当にこういう人だったんだ」

という確認ができる映画なんでしょうね。

確かに、作品の雰囲気と本人の雰囲気はかなりつながっています。

ユーモアがあって、柔らかい。

でも芯はかなり強い。

ものを作ることに対しては妥協しない。

孫のエミリアも、撮影を始めてみると祖母は思っていた以上に率直で、ユーモアがあり、考え方も非常に現代的だったと振り返っています。

だから、

「リサ・ラーソンという作家を知る」映画というより、「リサ・ラーソンという人間を知る」映画

なんでしょうね。

 

「子どもとの時間をあまり持てなかった」という言葉

映画の中でもう一つ引っかかったのが、リサが子育てについて振り返る場面です。

本人が、

「子どもたちとの時間をあまり持てなかった」

という趣旨のことを話しています。

僕はそこを見ながら、

「リサ・ラーソンほどの人でも、そんなに忙しかったんや」

と思ったんですね。

実際、1960年、62年、67年と3人の子どもが生まれた時期は、グスタフスベリで猛烈に作品を作っていた時代です。

本人も後年、

「いつもアトリエと家の間を走っていた」

と振り返っています。

当時は子どもたちが保育園に入れず、複数の保育者やベビーシッターに頼りながら仕事を続けていました。

ここで僕が考えたのが、

リサ・ラーソンって、いったいどんな形で稼いでいたんだろう

ということでした。

あれだけ売れたのに、ロイヤリティはなかった

調べてみると、これはかなり意外でした。

グスタフスベリにいた時代のリサは、基本的には会社員です。

しかも、自分がデザインした作品がどれだけ売れても、ロイヤリティはもらっていなかった。

本人がはっきりそう証言しています。

しかも給料も低かった。

自分で作った商品が欲しければ、自分で買わなければならず、試作品も本人の所有物にはならなかったそうです。

これは今の感覚からすると結構驚きます。

リサ・ラーソンの作品って、世界中で大量に売れているわけです。

当然本人もかなり儲けたんだろうと思っていました。

でも少なくともグスタフスベリ時代は、そうではなかった。

家計が厳しいときには、夫グンナルが版画を売って、そのお金で一週間分の食費をまかなったこともあったそうです。

あれだけ成功していても、そんな感じだったんですね。

だから、

「子どもとの時間をあまり持てなかった」

という言葉も、

「有名になって忙しかったんですね」

だけでは済まない気がします。

売れっ子なのに給料はそれほど高くなく、生活のためにも働き続ける。

しかも3人の子どもを育てる。

そりゃ大変ですよね。

 

独立してから、ようやく立場が変わる

リサは26年間勤めたグスタフスベリを1980年ごろに離れ、フリーランスになります。

本人は独立について「後悔はなかった」と振り返っています。

そしてこの頃から、会社員として固定給をもらう立場ではなく、作家・デザイナーとして企業と仕事をする立場になっていく。

さらに後にはケラミックステュディオンを立ち上げ、日本を含む海外でブランドとして大きく展開されるようになります。

少なくとも若い頃の

「ものすごく売れているのに自分にはロイヤリティが入ってこない」

という状態からは、かなり変わったと見ていいんでしょう。

ただ、本人自身はもともとお金や待遇にあまり執着するタイプではなかったようです。

これも何となく映画の中のリサを見ていると納得します。

 

有名なライオンや猫とは全然違う作品も面白かった

もう一つ、映画を観ていて面白かったのが、作品の見せ方です。

普通の美術ドキュメンタリーだったら、

「これは何年の代表作で、このシリーズが大ヒットしました」

みたいな説明が入るところでしょう。

この映画はそういうことをあまりしません。

話の途中で、パッ、パッと作品が映る。

しかも僕らがよく知っている猫やライオンだけではない。

もっと奇妙なものだったり、ちょっと宗教的に見えるものだったり、人間の造形だったり。

「ああ、こんなものも作っていたんや」

という作品が結構出てきます。

リサはグスタフスベリ時代にも、大量生産されるシリーズと並行して、あまり知られていない一点ものの陶芸作品をずっと作っていました。

僕はむしろ、ああいう作品をもう少しじっくり見たかったですね。

マイキーやライオンだけを見ると、どうしても「かわいい北欧デザインの人」になってしまいます。

でも実際には、もっと変なものも作るし、かなり自由な芸術家だったんですよね。

その一端が映画の中でチラチラ見えるのは面白かったです。

 

「面白い映画」ではない。でも、なるほどね、とは思う

なので、最終的な感想としては、

いわゆる「面白かった!」という映画ではないです。

僕が期待していたリサ・ラーソンの作品史でもない。

代表作の背景やグスタフスベリでの仕事をもっと知りたいと思って観ると、少し物足りないと思います。

実際、僕もそこはかなり思いました。

ただ、

「なるほどね」

という気持ちはすごく残りました。

あのかわいい猫やライオンを作っていた人が、

若い頃は仕事と子育てに追われ、

夫と70年近く暮らし、

夫を亡くして一人になり、

身体も記憶も衰えていく中で、

それでも最後まで何かを作ろうとしていた。

そういう一人の人間だったんだな、と。

この映画で見せたかったのは、たぶんそちらなんでしょう。

公式の紹介でも、エミリアは「世界的陶芸家」という肩書きの向こう側にいる一人の女性として祖母を撮った、とされています。

そう考えると、これは

リサ・ラーソンの作品を解説する映画ではなく、リサ・ラーソンがそこに「いた時間」を残した映画

なんですね。

タイトルも、観終わってからの方がよく分かります。

妻のように昔からリサ・ラーソンの作品が好きな人なら、「この人があれを作っていたんだ」という感覚でかなり見応えがあると思います。

一方で、初めてリサ・ラーソンを知る人が「代表作や経歴を勉強しよう」と思って観る映画ではないかな。

僕自身は、思っていたものとは違いました。

でも、夫婦のこと、老いること、仕事と家族のこと、それでも何かを作り続けるということ。

映画館を出てから考えたことは結構多かったです。

だからやっぱり最後は、

面白かったというより、「なるほどね」と深く納得した映画だった。

そんな感じです。

読書録「リベラル疲れ」:価値観には共感する。でも、付き合うのには疲れる

・リベラル疲れ 農村自治会長、分断解消に挑む
著者:鈴木大介
出版:中央公論新社

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前作から続く、作者自身への問い

鈴木大介さんの前作『ネット右翼になった父』を読んだとき、一番驚いたのは、その着地点でした。

題名から想像したのは、晩年の父親がネット上の右派的な言説に影響され、いわゆる「ネット右翼」になっていく過程を追った本です。ところが、父親の人生や言動を丁寧にたどった作者が最後に向き合うことになったのは、父親以上に作者自身の側にあった「歪み」でした。

父親には確かに差別的な発言や、借りてきたようなヘイトスラングがあった。しかし、それだけで父親全体を「ネット右翼」と決めつけ、自分から関係を閉ざしてしまったのは、作者自身の強いアレルギーと不寛容だったのではないか。そんな結論です。

当時の僕は、「それなら『ネット右翼になった父』という題名でいいのかな?」とも思いました。ただ、父親を単純なラベルで処理せず、最後には自分の側を疑うところまで掘り下げた点は、非常に印象に残りました。

今回の『リベラル疲れ』は、その問題意識を父子関係からさらに広げた本だと思います。

 

農村自治会長になって知った「保守」

作者は、筋金入りとまでは言わないにしても、かなり考え方の固いリベラルです。本人にもその自覚があり、自治会や消防団、神社の祭礼などに対して、家父長制や全体主義の名残のようなものを感じ、強い違和感を持っていました。

ところが農村で自治会長を務め、地域の景観や行事、防災、人間関係を実際に維持する側へ回ると、「保守」の見え方が変わっていきます。

ここでいう保守は、右派的な政治思想や排外主義ではありません。誰かが引き受けなければ失われる場所や共同体を、面倒でも手を動かして守ることです。外から理念だけで眺めていたときには古く見えた仕組みにも、地域を維持してきた理由がある。もちろん、古い慣習をすべて肯定する必要はありませんが、現場を担うことで初めて見えるものもあります。

その経験を経て作者は、政治的な考えの違いから疎遠になっていた、右派・ネット右翼的に見えた旧友たちとの対話を再開します。話を聞いてみると、それぞれの考えの背後には、家族や地域への帰属意識、戦争や安全保障についての原体験、社会への不安などがありました。

意見が正しいか間違っているかだけでなく、なぜその人がそう考えるようになったのかを見る。前作で父親に対してできなかったことを、今度は生きている友人たちとの間でやり直そうとしたようにも読めます。

リベラル批判ではないけれど、僕も疲れている

作者は本書でも、相当に自分の考えにこだわっています。読んでいて「そこまでこだわるか」と思うところはありました。けれど、最終的にたどり着いた場所には、かなり納得感がありました。今の僕が考えていることにも近かったからです。

僕自身、ベースの考え方はリベラルだと思います。差別や貧困、マイノリティーの問題に怒りを持つことには意味がありますし、人権、寛容、多様性といった価値を否定するつもりもありません。

ただ、一般に左派・リベラルと呼ばれる人たちの一部とは、あまり関わらないでおこう、触れないでおこう、という気持ちが強くなっています。批判して打ち負かしたいわけではありません。単純に、付き合うのに疲れるのです。

これは右派側にも同じことが言えます。いわゆるネトウヨと呼ばれる極端な人たちにも近づきたくありません。事実よりも陣営を優先し、相手を罵倒し、訂正することもできない人とは、右であれ左であれ距離を置きたい。

思想の左右ではなく、対話ができるか、事実に応じて考えを修正できるか、自分たちの側にも同じ基準を適用できるか。そのあたりが、僕にとっては重要になってきました。

 

怒りだけでは仲間は増えない

本書を読みながら改めて考えたのは、社会を変えようとするなら、正しさを主張するだけでなく、どうやって賛同者を増やすかを考えなければならないということです。

多少関心を持って近づいてきた人に、いきなり「あなたは間違っている」「勉強が足りない」と突きつければ、その人はもう近づいてきません。議論では勝ったつもりになれても、支持者と信頼を失っている。これを繰り返せば、運動は純化する一方で、社会的にはどんどん先細りしていきます。

怒りは問題を発見し、可視化する力になります。しかし、解決策を作って実行する段階では、説明や説得、優先順位づけ、時には妥協も必要です。いつまでも怒りと罵倒だけを前面に出していても、仲間を増やす役には立ちません。

しかも、反発されるより厄介なのは、黙って距離を置かれることです。

「主張にはある程度賛成する。でも、あなたたちとは一緒に行動したくない」

これが、今広がっている「リベラル疲れ」の実体なのではないでしょうか。

もちろん、日本で左派政党がずっと政治的な多数派だった、という意味ではありません。それでも、人権や多様性を重視するリベラルな言葉は、メディアや大学などの公共的な言論空間で、一つの「正しさの基準」として力を持ってきました。その側にいた人たちからも疲れや静かな離脱が出ているとすれば、社会の前提そのものが変わり始めている表れだと思います。

 

理念が高いほど、ダブルスタンダードは重く見える

リベラルの難しさは、寛容や多様性、人権を掲げているぶん、自分たちの言動との矛盾が強く見えてしまうことです。

最近の例では、東京大学の本田由紀教授が、皇族女性をめぐって「遺伝的要因のおそろしさを感じる」とSNSに投稿した件がありました。普段なら差別的表現を厳しく批判する側の人物が、このような言葉を使う。しかも批判を受けたあと、端的に訂正・謝罪するよりも、長い説明で自分の意図を理解させようとする姿勢が目立ちました。

本田教授の教育者・研究者としての実績まで否定する必要はありません。しかし、嫌いな相手に適用する原則を、自分や仲間、政治的に好ましくない対象にも同じように適用できるのか。そこが崩れると、それまで語ってきた理想まで偽善に見えてしまいます。

これはリベラル思想が間違っているという話ではありません。むしろ理念が重要だからこそ、掲げる側には一段厳しい自己検証が求められる、ということだと思います。

 

「正しい陣営」より、何をどう解決するか

世の中全体を見ても、以前はネット右翼的な言説への疲れから距離を置く流れがあり、その次に「リベラル疲れ」が表面化してきたように感じます。

沖縄県知事選で12年ぶりに県政が交代したことや、国民民主党などが一定の評価を集めていることにも、「正しい陣営はどちらか」より、「現実の問題をどう解決するのか」を重視する空気が反映されているのかもしれません。もちろん、個々の選挙結果をすべてリベラル疲れだけで説明するのは乱暴です。物価、候補者、組織、地域事情など、要因はいくつもあります。

ただ、理念的な主張だけではなく、生活や経済、安全保障といった現実の問題に対して、実行可能な答えを求める人が増えているのは確かではないでしょうか。

その意味で、中道改革の行き詰まりも象徴的に見えます。立憲民主党と公明党が「中道」を掲げてまとまったものの、選挙で大敗し、その後は再び分かれながら統一会派を作るといった話になっている。政党助成金や借金、選挙資金など現実的な事情があることは理解できます。それでも、有権者から見れば、何を実現するための中道だったのかが見えにくく、政党側の都合で集まったり分かれたりしているように映ります。

中道への期待がなかったわけではない。しかし、この経過を見てかなり冷めました。リベラルな価値を現実的な政策に落とし込む受け皿になってほしかったのに、理念と実務をつなぐ以前のところで行き詰まってしまった。その徒労感もまた、「もうあまり関わらないでおこう」という気分を強めます。

 

理念を捨てず、正しさの使い方を変える

本書は、保守が正しく、リベラルが間違っていると主張する本ではありません。リベラルな価値観を捨てるのではなく、その正しさによって人を分類し、関係を切断してしまう態度を問い直す本です。

一方で、差別やヘイトスピーチを単なる意見の違いとして処理してはいけません。傷つけられた側にまで対話を義務づけることもできません。本書に登場する旧友たちは、もともと作者と関係があり、言葉を交わせる人たちです。その経験をネット右翼一般に広げることには限界があります。

それでも、相手をラベルだけで判断せず、その背景にある経験まで聞こうとする姿勢は必要です。反対意見を持つ人をすぐに敵と見なし、関係を切るだけでは、社会の分断は深まる一方です。

僕自身は、これからもリベラルな価値の多くを支持すると思います。ただし、怒りや罵倒、純化競争、ダブルスタンダードとは距離を置きたい。右派にも左派にも同じ基準を当てながら、問題に対して何ができるのかを一つずつ考えたいと思います。

「正しいことを言っているか」だけでなく、「その正しさによって仲間を増やし、現実を少しでも変えられるか」。

『リベラル疲れ』は、今の僕が感じていたものに名前をつけ、その先を考えるきっかけになった一冊でした。

 

#読書感想文
#リベラル疲れ 農村自治会長、分断解消に挑む
#鈴木大介

読書録「名探偵にさよならを」:多少の無理も含めて、三作でちょうどよかった

『名探偵にさよならを』
著者:小西マサテル
出版:宝島社

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※以下、シリーズ全体を含むネタバレがあります。

 

『名探偵のままでいて』『名探偵じゃなくても』と読んできたシリーズの完結編です。

レビー小体型認知症を患う元校長の祖父と、その孫娘で小学校教師の楓。楓の周囲で起きる不可解な事件を、祖父が安楽椅子探偵よろしく解き明かしていく。

 

最初にこのシリーズを読み始めたときは、もう少し軽い「日常の謎」系のミステリーなのかと思っていました。

ところが実際には、殺人事件も起きるし、事件の背景も結構陰惨です。

今回も、火事の中から消えた車椅子の老女、古いアパートで起きる「音」と「鍵」の二重密室、豪華客船での密室殺人など、なかなか物騒な事件が続きます。

そして、一見すると独立した事件を扱う連作短編集のように見えていたものが、やがて一つの大きな事件へとつながっていく。

シリーズ最終作ということで、かなり大掛かりになりました。

 

推理は面白い。でも、トリックには結構無理もある

三作を通じて、僕が一番楽しんだのは、やはり推理の部分だったと思います。

ただし、「トリックがものすごく巧妙だった」という意味ではありません。

むしろ今回などは、

「いや、それはちょっと無理がないか?」

と思うところが結構あります。

連作に見えた事件が一つにつながっていく構成についても、細かく考え始めると「それはどうなんだろう」と思う部分はあります。

リアリティという意味では、かなり怪しい。

でも、そこを一つ一つ突っ込んでいくのも、この手のミステリーでは少し野暮なのかもしれません。

日常ミステリーなら、現実の延長線上で「なるほど、そうだったのか」と思わせてほしいところですが、殺人事件を扱う本格ミステリーとなると、どうしてもある程度の大仕掛けが必要になります。

その範囲で考えれば、僕には十分許容範囲でした。

「無理はある。でも面白い」

というのが、一番近い評価です。

 

おじいさんをどう終わらせるのか

最終巻を読むうえで、一番気になっていたのは、やはりおじいさんのことでした。

認知症は少しずつ進行しています。

シリーズが続いていけば、いつか楓との別れを描かなければならない。

しかも今回のタイトルは『名探偵にさよならを』です。

当然、

「これはいよいよ……」

と思います。

実際、物語の終盤では祖父の命そのものが危うくなります。

ただ、作者はここで祖父を死なせるという終わり方を選びませんでした。

病気が治るわけでもないし、これから先に別れが来ることも変わらない。

それでも、今回の物語の中では「その時」を描かなかった。

僕は、これはこれで良かったんじゃないかと思います。

三作付き合ってきた読者としても、最後に完全な別れまで見せられるより、このくらいのところで物語を閉じてもらう方が、このシリーズには合っていたように感じました。

タイトルの「さよなら」は、必ずしも死別だけを意味する必要はないのでしょう。

 

恋愛パートは、やっぱり最初からなくてもよかったかな

もう一つ、シリーズを通じて引っ張ってきたのが、楓と岩田先生、四季の三角関係です。

ここについては、僕は最初からかなり冷めた目で見ていました。

正直なところ、このシリーズに恋愛パートはいらなかったと思っています。

謎解きと祖父と楓の関係だけで、十分に物語は成立していたんじゃないでしょうか。

とはいえ、三作にわたってここまで引っ張った以上、最終巻で決着をつけないわけにもいきません。

そして楓が選んだ相手については、

「まあ、やるならこっちだよね」

という感じでした。

結末そのものには納得しています。

ただし、

「だからこの恋愛要素が必要だった」

とまでは思いません。

最後まで読んでも、僕の中では「最初からなくてもよかったんじゃないの?」という評価は変わりませんでした。

このあたりは、作品の好き嫌いが分かれるところかもしれません。

 

最終作としては、ちゃんと落とすところは落とした

一方で、シリーズを通じて気になっていた細かな仕掛けや、「これ、どうするつもりなんだろう」と思っていた要素について、最後にちゃんと落ちをつけたところは良かったです。

読んでいる途中では、

「小説だから、まあいいか」

くらいに流していたものまで拾ってくる。

 

シリーズものの最終巻は、それまでに広げたものをどこまできれいに畳めるかが重要です。

その意味では、本作はかなり律儀に片付けています。

祖父の物語。

楓の恋愛。

それまでの事件につながる仕掛け。

僕自身、それぞれへの評価は違います。

祖父については「これでいい」。

恋愛については「やっぱりなくてもよかった」。

一方で、仕掛けの回収については「ちゃんとそこまで拾ったか」と感心しました。

全部が大満足というわけではないところが、逆に僕にとってはこの作品への素直な感想です。

 

三作で終わったのもちょうどいい

そして読み終わって一番感じたのは、

「三作でちょうどよかったな」

ということでした。

この設定で五作、六作と続いていたら、おそらく僕は途中でついていけなくなっていたと思います。

楓の周囲で毎回これだけの事件が起き続ければ、さすがに無理も大きくなります。

祖父の病気についても、いつまでも同じ状態のまま謎解きを続けるわけにはいきません。

恋愛関係も引っ張り続けるほどのものではない。

そう考えると、

一作目で設定を提示し、
二作目で人物と関係を広げ、
三作目で一気に畳む。

このくらいがちょうどいい。

今回の事件も、トリックも、連作から長編へとつながっていく構成も、細かく考えれば「いやいや」と思うところはあります。

それでも最後まで楽しんで読めました。

そしてシリーズを読み終わったとき、

「もう少し読みたかった」

よりも、

「ここで終わって正解だったな」

と思える。

これはシリーズものの終わり方として、案外いいことなんじゃないでしょうか。

ものすごく完成度の高い本格ミステリーだった、とまでは思いません。

恋愛パートも最後まで僕には余計でした。

でも、推理を楽しみ、祖父と楓の関係を見届け、広げた話をきちんと畳んで終わる。

多少の無理も含めて、エンターテインメントとして三作を楽しませてもらいました。

そういう意味で、『名探偵にさよならを』というタイトルどおり、ここでこの「名探偵」にさよならするくらいが、ちょうどいいのだと思います。

 

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