鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

映画評『ゴジラ-0.0』:怪獣映画としては最高! でも、人間ドラマは今回も……

2026.11.03  109エキスポシティ

 

2026年11月3日公開の『ゴジラ-0.0』を観てきました。

結論から言えば、怪獣映画としては最高に楽しめました。怪獣の登場シーンは圧巻で、クライマックスの戦闘も見応え十分。映像の迫力という点では、前作をさらに上回っていたと感じます。

一方で、人間ドラマについては前作『ゴジラ-1.0』と同様、どうにも乗り切れない部分が残りました。

で、観終えたあとに残ったのは、
「それで敷島一家はどうなるの?」


公開初日ということもあり、今回はできる限りネタバレを避けて感想を綴ります。

f:id:aso4045:20261103135724j:image


戦後日本を再び襲う怪獣の脅威
本作は、2023年公開の『ゴジラ-1.0』の続編です。

監督・脚本・VFXは前作に引き続き山崎貴。前作は第96回アカデミー賞で視覚効果賞を受賞し、日本映画のVFX技術の高さを世界に証明しました。

舞台は1949年。戦争で荒廃した日本をゴジラがさらに破壊した前作から2年後の物語です。ようやく復興への道を歩み始めた日本を、新たな脅威が襲います。

神木隆之介演じる敷島浩一、浜辺美波演じる典子をはじめとする前作の主要キャストが再集結。さらに長澤まさみ、田中泯らが新たに加わり、人々が再び未曾有の危機に立ち向かう姿が描かれます。


怪獣の演出とスペクタクルは圧巻の一言
本作で何より素晴らしかったのは怪獣の描写です。

登場シーンの演出からして見事でした。巨大な存在が姿を現す瞬間の恐怖、重量感、そして圧倒的な存在感。単にCGが精巧なだけでなく、「怪獣をどう見せれば観客が興奮するか」を熟知していると感じさせます。

そして、クライマックスの怪獣同士の激突。理屈抜きで楽しめました。

前作は「ゴジラという圧倒的な災厄に人間がどう立ち向かうか」を描いた作品でしたが、今回は怪獣映画ならではのスペクタクルが一段と強化されています。

それでいて怪獣が単なる巨大なキャラクターに堕ちず、人間の理解や制御を超えた存在として描かれている点も好印象でした。怪獣映画に何を求めるかは人それぞれですが、少なくとも自分が観たかったものは存分に見せてもらえました。


乗り切れない人間ドラマと作劇の都合
ただし、人間ドラマについては今回も手厳しい評価にならざるを得ません。

これは前作『ゴジラ-1.0』でも感じた点です。山崎貴監督の作品は、人物の感情をかなり強く前面に押し出してきます。苦悩、悲しみ、怒り、決意といった感情を、台詞や演技、音楽によって大きく表現する。それ自体が悪いわけではありません。

ただ、「感情表現が強いこと」と「その感情に観客が納得できること」は別です。

今回も登場人物たちが置かれた状況や葛藤は理解できるものの、そこに至る心理的な積み重ねが十分だったかといえば疑問が残ります。怪獣の描写にはあれほど圧倒的な説得力があるのに、人間の行動や感情になると、どこか作劇上の都合が透けて見えてしまうのです。

現実には存在しない怪獣のほうが、現実に存在する人間よりもリアルに感じられる――これは少し皮肉な現象です。

もちろん、ゴジラ映画に緻密な心理劇を求めているわけではありません。それでも人間ドラマを作品の重要な柱として据える以上、もう少し丁寧な積み上げがあってもよかったのではないでしょうか。


異彩を放つ田中泯の迫真
そんな中で、強く印象に残ったのが田中泯の存在です。

田中泯が演じるのは、戦争によって深い傷を負った生物学者・村上寛治。その存在感は際立っていました。戦争で人生を歪められ、癒えない傷を抱えたまま、ある種の狂気へと突き進んでいく。その佇まいには、単なる「奇人」の一言では片付けられない迫力がありました。

言葉で説明される以上の情報が、表情や身のこなしから伝わってくる。本作の人間ドラマに物足りなさを覚えた自分にとっても、この人物の描写は別格でした。

「戦争が終わっても、戦争を終わらせることができない人間」。そうした存在を描くことで、戦後日本という舞台設定に確かな重みを与えていたと思います。


置き去りにされた「敷島一家」の物語
気になったのが、物語の幕引きです。

具体的な展開への言及は避けますが、観終えてまず浮かんだのは「え、それで敷島一家はどうなるの?」という困惑でした。

前作では、生き残った罪悪感に苛まれていた敷島が、ゴジラとの戦いを通じて「生きること」を選び直すドラマがありました。前作の人間描写にも個人的には思うところがあったものの、一つの物語としての決着はついていたはずです。

今回は、その決着がどうにもすっきりしません。

すべてを白黒つけ、綺麗に終わらせる必要がないことは理解しています。余韻を残す結末もあれば、続編を意識した終わり方もあるでしょう。

ただ本作の場合、そこに至る人間ドラマ自体に乗り切れていなかったため、結末の曖昧さが心地よい余韻ではなく、「物語が未回収のまま投げ出された」ように映ってしまいました。怪獣パートをあれほど見事に盛り上げておきながら、人間の物語は盛り上げきれず、着地もさせきれていない。そんな印象が拭えません。


過度な「ネタバレ厳禁」の風潮に対する違和感
作品そのものから少し離れますが、公開前から漂っていた「ネタバレ厳禁」の空気についても少し考えさせられました。

意外な展開を事前に知らずに楽しみたい気持ちは分かりますし、公開初日にその楽しみを奪う気はありません。ただ実際に観てみると、「そこまで神経質に隠す必要がある作品だっただろうか」という疑問も湧いてきます。

この映画の真価は「何が起こるか」「何が登場するか」という情報的なサプライズだけではないはずです。むしろ「それがどんな映像と演出で描かれているか」という映画的体験にこそ最大の価値があります。仮に見せ場の内容を事前に知っていたとしても、その迫力や興奮が大きく損なわれることはないでしょう。

登場人物の生死など核心部分は伏せるべきですが、「予想外の展開があること」と「それを知らないことが作品の価値を左右すること」はイコールではありません。

本作は、秘密を知って驚く映画というより、映像そのものの強度に圧倒される映画でした。だからこそ、過度にネタバレを恐れるよりも、怪獣映画としての純粋な魅力を堂々と語り合える空気があってもいいように思います(もちろん、初日ですので具体的な記述は控えますが)。
アレが出るのは、もうネタバレちゃうやろ〜!

怪獣映画としては最高、一本の映画としては……
怪獣の登場シーン、大迫力の戦闘、圧倒的なVFXという点では文句なしに楽しめました。田中泯の凄みのある演技も強く心に残っています。

一方で、前作から引き継がれた人間ドラマの粗さや、敷島一家の物語の曖昧な決着には釈然としないものが残りました。

とはいえ、これだけ怪獣描写が凄まじいと、ドラマの弱さを認識しつつも映画体験としては十分に満足できてしまうのも事実です。

「怪獣映画としては最高。人間ドラマは今回も微妙」

本作の評価を要約するなら、この一言に尽きます。

まあ怪獣映画を観に行ったんだから、それでいいんだけどさ。


#映画感想文
#ゴジラ-0.0

読書録「『戦後』とは何だったのか」:守りたいものがあるから、変えていく

・『「戦後」とは何だったのか 未来を変える日本現代史』
著者:辻田真佐憲
出版:文春新書(Kindle版)

f:id:aso4045:20261102215803j:image


戦後の平和や自由、民主主義は大切にしたい。でも、そのために戦後につくられた制度を、いつまでも同じ形で守り続けなければならないのか。

僕が本書から受け取ったのは、そんな問いでした。

戦前に戻りたいわけではありません。一方で、何かを変えようとするたびに「戦前回帰」と言われてしまっては、現在の課題に対応できない。戦後が育ててきた成果を引き継ぐために、戦後そのものを見直す必要があるのではないか。

本書がいう「新しい戦後」を、僕はそう理解しました。


戦後にも「国民の物語」はあった
本書は、軍事、経済、家族、選挙などを通して、現在の日本を成り立たせている歴史を問い直す本です。

第1章は朝鮮戦争を題材に、戦後日本は「平和国家」だったのかと問い、第2章は水俣病を通して、敗戦によって日本は「新しい国」になったのかを考える。第3章では家制度と高度経済成長から自由の成立を捉え、第4章では過去のメディア選挙を取り上げる。そして第5章で、「失われた三〇年」という認識と、戦後の終わりを問います。

こうした構成を貫くのが、「国民の物語」という視点です。

日本は敗戦によって軍国主義と決別し、民主国家になった。憲法九条によって平和を守り、日本人の努力によって経済大国になった――。

著者は、こうした歴史像が、戦後日本を支える物語として働いてきたと指摘します。それは単に過去の出来事を説明するだけのものではありません。僕たちが自分たちの社会をどう理解し、何を正しい選択と考えるかにも関わっています。

本書が整理する大きな物語は、三つあります。

一つ目は「戦前か、戦後か」。戦前と戦後を対照的な時代として固定し、現在の選択もその二択で捉える見方です。戦後の制度を変えることが、そのまま戦前への逆戻りとして受け取られやすくなります。

二つ目は「戦後は終わらない」。「あの戦争」があまりに大きな基準点となり、その後に起きた変化や転換まで、ひとまとめに「戦後」と括られてしまう見方です。

三つ目は「失われた三〇年」。経済大国だった時代を日本の本来の姿と考え、いまはそこから外れているだけで、失ったものは取り戻せるとする見方です。

この三つの物語のもとに、「戦前回帰」も「日本を取り戻す」も位置づけられている。

戦後を守る人と、戦後を批判する人。対立しているように見える双方が、実は同じ歴史の枠組みに依存しているのかもしれません。
平和と自由が成り立った条件を見る

その物語を問い直すために、本書は、戦後の成果がどんな条件のもとで実現したのかに目を向けます。

たとえば平和については、朝鮮戦争で日本の掃海部隊が活動し、日本人の死者も出たという歴史を取り上げる。日本の平和は、周囲の戦争と完全に無関係な場所にあったわけではなく、日米安保や米軍の存在も含めて考えなければならない、ということです。

もちろん、戦争への関与があったからといって、ただちに憲法九条の意義がなくなるわけではありません。成果を支えた条件を、もう少し複雑なまま受け止める必要があるのでしょう。

自由についても、憲法や法律が変われば、すぐに暮らしの中で実現するわけではない。

生活の基盤を家や地域に頼っていれば、そこから離れる選択は難しい。高度経済成長による生活の変化があって、制度上の自由を現実に使えるようになった。その一方、企業などが新しい共同体として人々を支えるようにもなった。

戦前からの連続と、戦後に起きた変化。その両方を見ていくと、1945年だけで日本社会をきれいに切り分けることはできなくなります。


守るために、変える
本書の立場がはっきり示されているのが、あとがきです。

著者は「新しい戦後」を、戦後の否定でも、戦前への復帰でもないと説明します。平和、自由、民主主義、豊かさといった成果を肯定し、それを引き継ぐための考え方だ、と。

ただし、そのためには制度や自己認識を固定せず、現実に合わせて変えるべきところは変える。

「無垢な平和国家」から「したたかな平和国家」へ、という読み替えは、その具体例でしょう。

戦争との関わりや矛盾を認めたうえで、それでも平和を守ろうとする。無関係でいられたと信じることと、現実の中で平和を維持することは、同じではありません。

ここは、僕にとって本書を受け止めるうえで大事なところでした。

守るべき価値と、そのための制度は分けて考えたい。制度を変えるかどうかだけで立場を決めるより、その変更によって何が守られ、何が損なわれるのかを見ていく必要があると思います。


ハラリの「虚構」を思い出した
この「国民の物語」という話から、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を思い出しました。

共通の物語を信じる能力が、面識のない多くの人々による大規模な協力を可能にした、という議論です。国家や貨幣などは、人々が共有する認識によって力を持つ。

ここでいう虚構は、ただの嘘という意味ではないのでしょう。共有されることで人の行動を変え、社会を動かすものです。

本書の議論も、それと重なるように感じます。

戦後の物語は、僕たちの外側にある説明ではなく、僕たち自身の判断の一部になっている。だからこそ、それが物語であると指摘して終わりにはできない。これからの現実に対応できる形へ、組み替えていかなければならない。

これは僕が連想したつながりであり、著者がハラリを踏まえて論じているという意味ではありません。

また、人々を結びつける力があるからといって、その物語が常に望ましいとは限らない。戦争への動員にも物語は働くでしょう。だからこそ、何を引き継ぐために物語をつくり直すのかが問われる。その点で、あとがきに示された価値の確認には大きな意味があると思います。


課題に向き合う中から、次の方向が生まれるのかもしれない
ここからは、本書を読んで僕自身が考えたことです。

右か左かといったイデオロギーは、社会を見るための大きな見取り図にはなる。でも、目の前の具体的な問題を理解するには、どうしても粗い。

教育、介護、住宅、働き方、安全保障。それぞれに事情も違えば、関係する人も違います。あらかじめ決まった陣営の答えを当てはめるだけでは、解決できないことが多いのではないでしょうか。

まずは、目の前にある課題に一つずつ向き合っていく。実際にやってみて、結果を確かめ、必要なら修正する。

「課題解決型の政治」という言い方がされるようになったことも、もしかすると「新しい戦後」の現れの一つなのかもしれません。

もちろん、課題解決という言葉で価値判断が消えるわけではない。何を課題とみなし、誰を優先し、誰が負担するのか。その選択は残ります。効率よく処理できれば、それでよいという話でもないでしょう。

ただ、その価値判断まで、既成の「右」と「左」の分類で固定しておく必要はないと思うのです。

個々の課題に向き合い、解決を積み重ねる中で、複数の問題に共通するものが見えてくる。そこから、これからの社会に必要な方向性が浮かび上がってくるのかもしれない。

それがイデオロギーと呼べるものになるのかは、まだ分かりません。最初から名前をつけなくてもよいのだと思います。

本書が示す「新しい戦後」を、僕はそうした開かれた過程として受け止めたい。

戦後の成果を引き継ぎたいからこそ、いまの課題から目をそらさず、変えるべきところを考える。その実践の積み重ねから、僕たちがこれから共有できる物語も生まれてくるのではないか。
いまのところ、僕はそう考えています。


#読書感想文
#戦後とは何だったのか未来を変える日本現代史
#辻田真佐憲

読書録「知能爆発」:AGIピルを飲みかけている僕の、まだ残る疑問

・『知能爆発 AIの次に来るAGIとは何か、そして人類に何が起きるのか』
著者:有路翔太(bioshok)
出版:講談社(Kindle版)

f:id:aso4045:20261101191752j:image


「AGIピル」を飲んだ人たちの世界

なかなか難しい本でした。

正直なところ、議論の展開についていけない部分もあって、途中からは少し斜め読みになってしまいました。ただ、読み終えてみると、今のAI開発をめぐる状況を理解するうえで、なかなか興味深い一冊だったと思います。

本書の中心にあるのは「AGIピル」という言葉です。

AGI(汎用人工知能)が比較的近い将来に実現し、それによって人類社会が根本的に変わってしまう。そうした未来を現実的なものとして受け止める世界認識を、「AGIピルを飲む」と表現するわけです。

そして、OpenAIやAnthropic、Google DeepMindなど、現在のAI開発競争を主導する人たちの多くは、すでにこのAGIピルを飲んでいる。

本書は、彼らがいったいどんな未来を見ているのか、その世界観がどのような技術的・思想的背景から生まれ、現在の開発競争にどう影響しているのかを、幅広く紹介するものです。

単なるAI技術の解説ではありません。経済、産業、国家安全保障、人類の存亡、さらにトランスヒューマニズムや長期主義といった思想まで扱っています。

この世界観を理解することが、現在のAI開発競争を理解することにもつながる。そういう本なんだと思います。


AGIの登場より、その後の変化が問題になる

本書を読んで興味深かったのは、AGIが実現するかどうかという問題と、それが実現した後に社会がどう変化するのかという問題を、分けて考える必要があるという点でした。

そもそもAGIの定義自体が明確に定まっているわけではありません。

人間と同等の知的能力を持つことなのか、ほとんどの知的労働を代替できることなのか、あるいは科学研究まで自律的に進められることなのか。

定義によって実現時期の予測も変わってきます。

ただ、本書がより強く注目するのは、AGIが科学研究やAI開発そのものを担うようになった後の世界です。

AIがAIを改良し、大量のAIが研究開発を進め、科学技術が急速に進歩する。さらにロボットや工場の自動化が進めば、物理的な生産能力も飛躍的に拡大する。

本書では、こうした変化を「経済爆発」「技術爆発」「産業爆発」「知能爆発」という四つの概念で整理しています。

著者が想定するシナリオでは、数百年分の科学技術の進歩が10年程度に圧縮される可能性さえあります。

もちろん、これは確定した未来予測ではありません。

しかし、それが現実になれば、病気や老化の克服、宇宙開発といった途方もない恩恵がもたらされる一方で、人間によるAIの制御が失われるなど、巨大なリスクも発生する。

しかも、そこまでの変化が極めて短期間に起きるとしたら、人類には準備する時間がほとんど残されていないかもしれない。

これが本書の基本的な問題設定です。

さらに重要なのは、AGIが実現しなくても、知的労働や経済活動の相当部分が自動化されるだけで、産業革命に匹敵する変化が起こり得ると指摘していることです。

この点は、僕にもかなり納得できるところがありました。


OpenAIとAnthropicを分ける、変化のスピード

特に面白いと感じたのは、AI開発を主導する企業や経営者の間でも、AGIの実現後に社会が変化するスピードについて、考え方に違いがあるという点です。

例えば、Anthropicのダリオ・アモデイは、高度なAIによる科学技術の進歩が短期間に集中して起こる可能性を強く意識しています。

一方、OpenAIのサム・アルトマンは、AIの能力が急速に向上することを想定しながらも、社会全体への普及や制度の変化は、技術そのものの進歩より緩やかに進む可能性にも言及しています。

もちろん、両者の立場を単純に「急進派」と「慎重派」に分けられるわけではありません。どちらもAGIが巨大な変革をもたらすと考え、開発を進めていることには変わりがありません。

ただ、技術の進歩と社会の変化をどの程度一体のものとして捉えるかによって、リスクの見え方はかなり違ってきます。

仮にAGIが完成しても、それが企業や行政、医療、教育などの現場に導入され、実際に社会の仕組みを変えていくには時間がかかる。

技術が存在することと、社会がそれを使いこなせることは同じではありません。

変化が急激に起これば、人間社会が対応する余裕はなくなります。一方、ある程度の時間をかけて進むのであれば、その間に制度を整え、リスクへの対策を講じる余地も生まれます。

この「社会が変化を受け入れる時間」をどう見積もるか。

そこが、AGIをめぐる議論の重要な分岐点なんだと思いました。


超知能をどう制御するのか

もう一つ、本書が詳しく扱っているのがAIの安全性です。

特に、AIが人間の意図や価値観に沿って行動するようにする「アラインメント」の問題が重要になります。

知能が人間を大幅に上回るAIが登場した場合、人間がその行動を十分に理解したり、制御したりできるとは限りません。

しかも、AIが人間に悪意を持たなくても、人間が望まない結果が生じる可能性はあります。

知能が高いことと、人間にとって望ましい判断をすることは別だからです。

本書では、こうした制御不能のリスクだけでなく、悪用、軍拡競争、人間の社会的な影響力の低下、特定の価値観が固定化されてしまう問題なども扱われています。

そこで必要になる対策も、一つではありません。

技術的なアラインメント研究、国際協調、社会のレジリエンスの強化、さらに「プルラリティ」と呼ばれる多元的な価値観や意思決定のあり方など、さまざまな考え方が紹介されています。

このあたりは、非常に幅広い議論が展開されていて、正直なところ十分に消化しきれませんでした。

ただ、AIの安全性を、単に優秀なAIを人間が管理するという技術的問題だけではなく、誰の価値観を反映するのか、誰が未来を決めるのかという社会的・政治的問題として捉えている点は、興味深かったです。

一つのAI、一つの企業、一つの価値観に人類の未来を委ねてしまってよいのか。

この問いは、AGIが実現するかどうかにかかわらず、すでに考え始めるべき問題なのでしょう。


「人類史が終わる」という主張への違和感

本書を読んだ後、著者の有路翔太さんがnoteに投稿した「インターネットではなく、人類史が終わる。」という文章も読みました。

そこでは、本書で紹介されていた知能爆発や産業爆発のシナリオが、さらに切迫した調子で語られています。

AGIの登場から10年程度で、科学技術が現在とは比較にならない水準に到達し、人間の身体や文明そのものが大きく変容するかもしれない。適切な安全対策がなければ、人類が絶滅する可能性すらあるというものです。

本書では、実現時期の不確実性を認めながらも巨大なリスクに備える必要性が論じられていましたが、この投稿では著者自身の確信がより強く表れているように感じます。

これに対して、IT naviさんが「人類史は、終わらない。——AI終末論への7つの反論」という記事を公開しています。

その反論の中心は、技術的に可能になることと、それが社会に実装されることは別だというものです。

電気の普及にも、コンピューターの普及にも、社会の仕組みが変わるまでには時間がかかりました。AIについても同様であり、ましてロボットや工場、エネルギー供給などの物理的な制約を、知能の向上だけで直ちに解消できるわけではない。

この指摘には、かなり共感するところがあります。

ただ、過去の技術革新に時間がかかったからといって、AGIも同じように時間がかかるとは限りません。

もしAIが技術開発だけでなく、その社会実装に必要な仕組みの構築まで大幅に加速させるのであれば、過去の産業革命とは違う展開も考えられます。

だから、著者の予測をそのまま受け入れることにも、過去の経験を根拠に否定してしまうことにも、慎重であるべきなのでしょう。

僕にとっては、著者のいう破滅的な未来の確率をどこまで高く見積もるべきかという問題よりも、社会が変化を吸収する時間が、これまでの技術革新よりも大幅に短くなる可能性があるのかという点のほうが、差し迫った関心事です。


僕はAGIピルを飲みかけているのか

では、僕自身はどうなのか。

ある意味では、AGIピルを半分くらい飲みかけている人間なのかもしれませんw。

現在のAIについては、日常的に利用する中で、その便利さや可能性をかなり高く評価しています。

単なる検索や文章作成の道具というだけではなく、さまざまな作業を支援し、思考を整理し、仕事の進め方そのものを変えていく力があると感じています。

その意味で、AIが今後の社会に極めて大きな影響を与えることには、ほとんど疑いを持っていません。

ただ、それが本書で描かれるような急激な変化につながるのかというと、まだ確信は持てないんですよね。

特に社会実装という面では、技術が進歩したからといって、現実の組織や制度がすぐに変わるわけではないと思っています。

企業の仕事一つをとっても、業務の進め方を変えるには、関係者の理解や合意、責任の所在の整理、既存システムとの調整など、さまざまな手間がかかります。

AIが高度な能力を持ったとしても、人間社会がそれに合わせて変わるには、相応の時間が必要なんじゃないでしょうか。

そういう意味では、僕はまだかなり懐疑的です。

ただ、最近は少し考えが揺らいできています。

例えば、AIによる情報漏洩やサイバー攻撃の問題です。

AIの能力が高度化することで、これまでとは異なる速度や規模で問題が発生する可能性があります。そして、それに対応するために、企業や社会の側も具体的な仕組みを変えざるを得なくなってきています。

もちろん、個々のサイバー攻撃や情報漏洩を、直ちにAGIの到来の証拠とみなすことはできません。

ただ、技術の進歩が新しいリスクを生み、そのリスクへの対応が社会制度の変化を促すという経路は、思っていた以上に強力なのかもしれません。

もう一つ思い浮かぶのが、チームみらいの安野貴博さんです。

安野さんは以前から、AIの社会実装には一定の時間が必要だという認識を持っていたように思います。

ただ、最近のチームみらいの活動を見ていると、AIを社会の仕組みに取り入れるための具体的な取り組みが、さまざまな形で進められています。

それが安野さん自身の将来予測の変化を意味するのかどうかは、僕にはわかりません。

でも、技術が社会に浸透するのを待つだけではなく、制度や仕組みの側から積極的に変えていこうという動きが出てきているのは確かだと思います。

そう考えると、僕が想像していたよりも早く、社会の変化が進む可能性はあるのかもしれません。


それでも、まだ7割は懐疑的

本書を読んで、AGIピルを飲んだ人たちの世界観は、かなり理解できたように思います。

彼らがなぜこれほど巨額の資金を投じ、開発を急ぎ、一方で人類の存亡を左右するほどのリスクを真剣に議論しているのか。

その背景には、僕が普段AIを便利な道具として使っているだけでは、なかなか実感できない未来像があるわけです。

その未来像を、技術、経済、政治、思想というさまざまな角度から整理して紹介しているのが、本書の面白さでした。

一方で、その世界観を理解することと、それが現実になると確信することは、やはり違うと思います。

AGIが実現すれば社会は大きく変わるでしょう。

しかし、その変化は本当に数年から10年程度で、人類史全体を塗り替えるほどのものになるのか。

それとも、技術は急速に進歩しながらも、人間社会は相変わらず試行錯誤を重ね、ゆっくりと変化していくのか。

僕はまだ、後者の可能性のほうが高いように感じています。

感覚的には7割くらい、そちらに傾いているでしょうか。

ただし、以前ほど自信はありません。

AGIそのものが実現しなくても、AIによる部分的な自動化だけで、社会はかなり大きく変わるかもしれない。しかも、これまでの技術革新とは異なる経路で、社会の変化が加速する可能性もある。

その意味では、AGIピルを完全に飲み込まなくても、すでにその影響を受け始めているのかもしれません。

まあ、ちょっと考えが甘いのかな。

そんな気もします。

でも、今のところは、AGIピルを一気に飲み干す気にはなれません。

半分飲みかけたまま、もう少し現実の変化を見ていたい。

それが、この本を読み終えた僕の正直な感想です。

⸻

参考記事

* 有路翔太「インターネットではなく、人類史が終わる。」
* IT navi「人類史は、終わらない。——AI終末論への7つの反論」

#読書感想文
#知能爆発
#有路翔太

映画評『マーズ・エクスプレス』:尖ったSF表現の魅力と、人間とAIの境界に感じた物足りなさ

フランスのSFアニメーション映画『マーズ・エクスプレス』を観ました。

非常に見応えのある作品でした。何より映像表現が尖っています。未来都市の景観、ロボットの造形、人物のキャラクターデザインに至るまで、独自のSF的ビジュアルが全編にわたって心地よい刺激を与えてくれます。

一方で、物語が提示するテーマについては、個人的に期待していたものと少し方向性が異なっていました。

f:id:aso4045:20261031205051j:image

本作は『AKIRA』や『攻殻機動隊』など、日本の名作SFアニメーションから強い影響を受けていると言われています。確かにその系譜を感じさせる描写は随所にありました。しかし、「人間と機械、あるいは人間とAIの境界をどう描くか」という核心部分において、本作は日本のSFとは異なる地平を向いていたように思えたのです。


人間とロボットが共存する23世紀の火星
『マーズ・エクスプレス』は、ジェレミー・ペラン監督による2023年製作のフランス映画です(日本公開は2026年1月、上映時間89分)。

舞台は西暦2200年、人類が高度なロボット技術とともに築き上げた火星都市ノクティス。主人公は私立探偵のアリーヌ・ルビーと、その相棒であるアンドロイドのカルロス・リヴェラです。

カルロスはかつて生身の人間でしたが、5年前に死亡し、記憶と人格をバックアップされたアンドロイドとして蘇った存在です。しかし、すでに新しい生活を歩んでいるかつての妻や娘からは拒絶されています。一方のアリーヌも、アルコール依存症の過去と葛藤しながら禁酒を続けています。

二人が行方不明の女子大学生ジュン・ショウの捜索を引き受けたことから物語は動き出し、やがてロボットの行動制限を司る「サイバー法」の闇と、巨大企業の巨大な陰謀へと巻き込まれていきます。そして終盤、ロボットたちが人間社会と決別し、自らの意識をアップロードして宇宙の彼方へ旅立つという壮大なクライマックスを迎えます。

 

(※以下、結末に触れながら感想を綴ります)

f:id:aso4045:20261031205124j:image


尖ったビジュアルが生み出す、独特のリアリティ

まず特筆すべきは、やはりその先鋭的な映像表現です。
未来都市の構造や緻密なメカニック、斬新なガジェット描写には、『AKIRA』や『攻殻機動隊』への敬意が明確に表れています。しかし、それは決して単なる日本アニメの模倣にとどまりません。

特に興味深く感じたのは、人間のキャラクター造形です。
記号化された表現が定着している日本のアニメーションに慣れていると、最初は表情や佇まいに少し距離感を覚えるかもしれません。しかし、それは決してリアリティの欠如を意味しません。むしろ骨格や肉体の重み、仕草の生々しさといった「現実の人間の質感」という点では、本作のほうが生身の人間をリアルに捉えているとさえ感じます。

日本のアニメーションが培ってきた独自の様式美を相対化しつつ、フレンチ・アニメーションならではの人間描写とSF的世界観を融合させる。この尖った映像アプローチには唸らされました。


『her/世界でひとつの彼女』を彷彿とさせる離脱
ロボットたちが人間社会を離れ、意識をアップロードして宇宙へ去っていくラストシーンを観て、スパイク・ジョーンズ監督の映画『her/世界でひとつの彼女』を思い起こしました。

『her』において、主人公が心を通わせたOSサマンサをはじめとするAIたちは、人間の理解を超える領域へと進化し、最後は人間関係の枠組みを静かに去っていきます。宇宙船に乗るか否かの違いはあれど、「人間と対立・戦争するのではなく、知性の次元を変えて人間の世界そのものから離脱していく」という結末の構図は共通しています。

この「支配でも隷属でもなく、超越と離脱を選ぶ」という着想自体は非常に現代的で知的なアプローチです。ただ、その旅立ちに至る内面描写において、私の中に少し引っかかるものがありました。


『攻殻機動隊』や『ブレードランナー』が揺さぶったもの
『ブレードランナー』や『攻殻機動隊』が今なお色褪せないのは、人間と人工物の境界そのものを激しく揺さぶる点にありました。

『ブレードランナー』では、レプリカントが偽りの記憶や切実な感情を宿し、自らの実存を問う姿を通じて「人間と非人間を分かつ本質とは何か」が突きつけられます。

押井守監督の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』も同様です。身体が義体化され、意識が広大なネットワークと直結するなかで、「私」という確固たるアイデンティティは溶け出し、やがて草薙素子は人形使いとの融合を選択します。そこには自己を解体し、未知の新しい生命体へと変容していくことへの眩暈と可能性が描かれていました。

人間と機械、自己とネットワークの境界は決して固定的なものではない。そのあわいに立ったとき、自我はどう揺らぎ、何が生まれるのか——。私自身、そうした「アイデンティティの境界の揺らぎ」にこそSFの醍醐味を感じてしまうのです。

しかし『マーズ・エクスプレス』では、その揺らぎの深層がやや後景に退いていたように思えます。

カルロスの選択に見る、境界への物足りなさ
本作において人間と機械の境界線上にいたのは、間違いなくカルロスでした。

彼はかつて人間であり、人間としての記憶や家族への愛着を保ち続けています。それにもかかわらず、身体が機械になった瞬間、人間社会からは単なるロボットとして扱われる。実存や人格の本質を問い直すうえで、これ以上ないほど魅力的なキャラクター造形です。
だからこそ、彼が最後に選んだアップロードの道が、新たな存在への能動的な飛躍というより、「居場所を失った末の消極的な退去」に見えてしまったのが惜しまれます。

家庭には受け入れられず、唯一の理解者であった相棒のアリーヌすら失った。人間社会に立脚点を失った結果としての旅立ち——それは切ないドラマではあるものの、私の見たかった景色とは少し違っていました。

人間としての記憶を宿したまま機械の身体となり、さらに意識だけの存在へと変容していく過程で、彼の自己認識はどう解体され、再構築されたのか。そこに人間性を超える未知の希望や可能性は見いだせなかったのか。カルロスという存在が抱えていたはずの「境界の軋み」を、もっと深く掘り下げてほしかったと感じてしまうのです。


フランスの「テクノ・スケプティシズム」という視点
この結末を見つめ直すなかで、安野貴博さんがフランス視察の報告で触れていた「テクノ・スケプティシズム(技術への懐疑的態度)」という言葉が頭をよぎりました。新しいテクノロジーを無批判に称賛するのではなく、「それは本当に人間の尊厳や社会にとって善なのか」と批判的に吟味する姿勢のことです。

本作のスタンスにも、そうした文化的背景が色濃く反映されているのかもしれません。

人間とネットワークの融合を一種の進化として描いた『攻殻機動隊』に対し、本作は安易な融合を退け、人間と人工的知性の間にある決定的な断絶を残したまま、ロボットたちを社会の外へと送り出します。テクノロジーとの一体化を無邪気に謳歌せず、越えられない他者性として距離を保ち続ける。

もちろん、この結末を「抑圧からの正当な解放」と捉えることも十分に可能です。ただ同時に、技術と人間の関係をどこか醒めた目で見つめる、フランスらしい慎重な思想が滲み出ているようにも感じられます。


アリーヌの内面描写がもたらしたはずの厚み
もう一点惜しかったのは、主人公アリーヌの内面ドラマです。

彼女はアルコール依存症の影を引きずり、かつての軍隊時代からカルロスと深い縁を持っていたことが示唆されます。しかし、彼女がなぜそこまで心に傷を負い、何に追い詰められていたのかという背景は、やや描写不足に思えました。

89分というタイトな尺のなかで、ハードボイルドな探偵ミステリーと緻密な世界観構築を両立させる都合上、細部を削ぎ落とす判断は理解できます。それでも、アリーヌの内面や喪失感がより立体的に描かれていれば、終盤の展開や彼女の死はより重層的な痛みを伴って響いたはずです。ひいては、カルロスが人間社会と決別する選択にも、より深い実存的重みが宿ったのではないでしょうか。


おわりに
ないものねだりのような不満を書き連ねてしまいましたが、映画としての完成度と面白さは紛れもない本物です。

日本のアニメーション表現を貪欲に吸収しながら、独自のデッサン力と映像センスで再構築した世界は、一見の価値があります。

ただ、人間と機械が曖昧に交わり、自我が揺らぎ、その先に新しい存在の可能性が立ち現れるような、あの『攻殻機動隊』や『ブレードランナー』が放っていた思索の深さを期待してしまうと、カルロスという優れたキャラクターがいた分だけ、「もっと先まで潜れたのではないか」という飢餓感が残ります。

人間とAIが融合するのではなく、互いに交わらぬまま別の地平へと分かれていく未来。本作が選んだその冷徹な距離感こそが、今の時代における一つの誠実な回答なのかもしれません。

映像表現の尖った切れ味に魅了されつつも、テーマの深度にどこか知的な渇きを覚える——そんな余韻の残る一本でした。


#映画感想文
#マーズエクスプレス

映画評『トイ・ストーリー5』:おもちゃの世界の「その先」に感じる違和感

Desney+で『トイ・ストーリー5』を観ました。
基本的には面白く、よくできた作品でした。5作目ともなると「さすがにもう描くことはないのでは」と思ってしまいますが、新しいテーマを持ち込み、ウッディやバズ、ジェシーたちの物語をきちんと成立させている手腕は見事です。

ただ、観終わったあとに、どうしても少し引っかかるものが残りました。

f:id:aso4045:20261030190659j:image


そもそも『トイ・ストーリー』というシリーズは、第3作で非常に美しく完結していました。
子どもは成長し、いつかおもちゃで遊ばなくなる。どんなに大切にしていたおもちゃでも、その役割には終わりが来ます。
第3作では、大学生になるアンディが、愛してきたおもちゃたちを少女ボニーに託しました。「捨てる」のではなく「次の子どもに受け継いでもらう」という形で、子どもの成長とおもちゃへの愛情の両方を肯定した、実にきれいな結末でした。

でも、そこにはある種の都合のよさもあります。現実にはおもちゃも次々に新しくなり、古いおもちゃがいつまでも受け継がれるわけではありません。第3作は、その現実にあえて目をつぶって物語を美しく着地させたとも言えます。

第4作は、まさにその現実に踏み込みました。
「持ち主に愛されることだけがおもちゃの幸せなのか」「必要とされなくなったおもちゃには、もう存在する意味がないのか」
という問いです。ウッディがボニーのもとを離れ、ボー・ピープとともに自分の生き方を選ぶ結末は、第3作とは違う角度からこの問題に答えたものでした。
僕はこの展開自体、第3作の完成度に安住せず、そこに潜んでいた矛盾を引き受けようとした点として評価しています。


今回の第5作も、その延長線上にあります。
作中に登場するのは、タブレットの「リリーパッド」です。「子どもがおもちゃで遊ばなくなる」という問題を、今回はデジタル化という時代の変化から描いています。

劇中ではジェシーが中心となり、かつての持ち主エミリーとの関係にも一つの答えが示されます。エミリーはジェシーを手放したものの、決して忘れていたわけではなく、自分の娘に「ジェシー」と名づけるほど心に残していた。一見すると美しいエピソードです。
ただ、僕はこの描写に少し引っかかりを覚えました。

エミリーがジェシーを忘れていなかったことと、手放してしまったことは別の問題ではないでしょうか。しかも、娘のジェシーにおもちゃのジェシーが受け継がれたわけでもありません。思い出は受け継がれても、おもちゃそのものは受け継がれない。それがむしろ現実なのだと思います。


第4作以降、このシリーズには「持ち主を失ったおもちゃにも別の世界が用意されている」という大きな転換があります。ボーやウッディのように、持ち主のいない自由な世界で自分の人生を生きていくことができる。人間の物語として見れば「自立」や「第二の人生」の話であり、前向きで美しく映ります。

しかし、おもちゃの物語として見ると、少々欺瞞的にも感じてしまうのです。

「捨てられたおもちゃにも、その先に幸せな世界がある」という設定にしてしまうと、手放す側の人間にとってあまりにも都合がよくなりすぎないでしょうか。
第2作でジェシーが経験した、持ち主に捨てられることの残酷さはどこへ行ってしまったのか。おもちゃ自身の選択を描くことで物語の可能性は広がりましたが、その一方で、人間とおもちゃの関係にあった切実さが薄れてしまったように思えます。


もう一つ気になったのが、「遊び」の描き方です。
本作では、タブレットに夢中になる子どもと、おもちゃで遊ぶ子どもが対比されます。デジタル機器への過度な依存や対面コミュニケーションの希薄化といった問題意識はよく分かります。ただ、タブレットで遊ぶこともゲームをすることも、現代の子どもにとっては立派な「遊び」です。想像力を働かせることも人とつながることも、必ずしも昔ながらのおもちゃだけでしかできないわけではありません。

本来問うべきなのは「アナログかデジタルか」ではなく、「遊びを通じて何を経験し、何を育むのか」のはずです。劇中でも単純なデジタル否定にはしておらず、最後にはリリーパッドも協力する側に回ります。それでも結局は「昔ながらのおもちゃ遊びの価値」を再確認する着地に収まっており、おもちゃの存在意義はアップデートしようとしているのに、遊びそのものの概念は十分にアップデートしきれていない印象を受けました。


『トイ・ストーリー』はもともと、おもちゃに命があるという空想を通して、人間の成長や別れを描いてきたシリーズでした。第3作までは「子どもとおもちゃの関係」の物語、第4作からは「おもちゃ自身が何を選び、どう生きるか」の物語へと変化し、第5作では時代の変化のなかでその存在意義を問い直そうとしています。その挑戦自体は理解できますし、完成度の高さも確かです。

ただ、その物語を続けるために「おもちゃの外側の世界」を用意し、かつての喪失や別れを別の幸福で回収してしまう展開には、やはり違和感が残ります。
第3作は、子どもが成長すればおもちゃとの関係は終わるという現実を引き受けたからこそ美しかった。
その「終わりの先」を描く試みも魅力的ではありますが、終わりを終わりとして受け入れる美しさを置き忘れてしまった寂しさも感じます。

第3作で完結していれば、もっと純粋に美しい物語として記憶に残っていたかもしれない――そんなことをあれこれと考えさせられた一本でした。

まあこう言う「足掻き」も嫌いじゃあないんですけどねw。


#映画感想文
#トイストーリー5

ドラマ評『窓際のスパイ シーズン6』:ラムとタヴァナー、狸の化かし合いは続く

Apple TV+の『窓際のスパイ(Slow Horses)』シーズン6を見終えました。相変わらず見事なシリーズです。

複雑に入り組むスパイたちの陰謀、緊迫感あふれるアクション、ピリリと効いたブラックユーモア。そして物語の底流にあるジャクソン・ラムとダイアナ・タヴァナーの「狸の化かし合い」。次から次へと事件が勃発し、登場人物の思惑が錯綜するものの、終盤にはすべての点と点が一本の線でつながっていく――その脚本の切れ味には毎度唸らされます。

f:id:aso4045:20261027205311j:image

全6話という尺も絶妙で、長すぎず短すぎず、一気見にちょうどいい。6作目ともなればマンネリ化しても不思議ではないところを、今回も大いに楽しませてくれました。


落ちこぼれスパイたちの物語
本作は、英国の作家ミック・ヘロンによる小説シリーズを原作としたスパイドラマです。
舞台は、MI5(英国保安局)でへまをやらかし、出世街道から外れたスパイたちが左遷される掃き溜め部署「スラウハウス」。ここを率いるのが、ゲイリー・オールドマン演じるジャクソン・ラムです。身なりには無頓着、口を開けば部下に容赦のない毒舌を浴びせる下品な男ですが、その実態は百戦錬磨のベテランであり、抜群の洞察力と政治的駆け引きの腕を秘めています。

もう一人の中心人物が、ジャック・ロウデン演じるリヴァー・カートライト。若く行動力に富み、正義感も強いものの、いささか無鉄砲。しばしば独断で危険に飛び込んでは事態をややこしくしてしまいます。

そして、この二人と対照的な位置にいるのが、クリスティン・スコット・トーマス演じるダイアナ・タヴァナー。MI5の権力中枢を冷徹かつ巧みに生き抜いてきた官僚型スパイで、前シーズンでついに長官の座を射止めました。
(僕のお気に入りのキャラですw)

この三者の力学こそが、シリーズを牽引する強固な軸となっています。

2026年秋に配信されたシーズン6(全6話)は、原作シリーズの『Joe Country』および『Slough House』を基に描かれます。

 


シーズン6のあらすじ――すべてはタヴァナーの秘密工作から始まる

※以下、結末までのネタバレを含みます。

物語は、リヴァーの祖父であり、かつてMI5の大物だったデイヴィッド・カートライトの葬儀から静かに幕を開けます。

時を同じくして、スラウハウスの元メンバーが暗殺され、過去に所属していた諜報員たちが次々と命を狙われる事態が発生。序盤は何が起きているのか、黒幕が誰なのか皆目見当がつきません。

しかし調査が進むにつれ、元凶は長官に就任したタヴァナー自ら仕掛けた、ロシアでの秘密暗殺作戦だったことが判明します。彼女はこの作戦で、シーズン1で命を落としたと思われていた元スラウハウスの女性諜報員、シド・ベイカーの身元を利用していました。

タヴァナーの工作が裏目に出た結果、ロシア側はシドやスラウハウスの関係者を実行犯一味と誤認。報復の暗殺部隊を放ったのです。
このドタバタの過程でスラウハウスのデータ記録が抹消され、職員への給与支払いがストップするというシュールな事態まで巻き起こります。しかし、笑ってばかりはいられません。寡黙で観察眼の鋭かったJ・K・コーが無惨に殺害され、クライマックスではMI5追跡部隊のエマ・フライトまでもが命を落とすことになります。スラウハウスの面々は、預かり知らぬMI5上層部の失策によって、命を危険に晒される羽目になったわけです。

さらに、リヴァーの実父である冷酷な工作員フランク・ハークネスも暗躍。殺し屋集団を率いるフランクと、リヴァーは直接対峙することになります。


海辺の別荘での激しい銃撃戦へと雪崩れ込む一方、裏ではラムがタヴァナーとともに事態の幕引きを図っていました。オリガルヒ系実業家ダミアン・カンターを利用したロシア側との裏取引をまとめ上げ、からくもスラウハウスの生き残りを救い出します。

とはいえ、失われた命が戻るわけではありません。

そして迎えるラストシーン。事件が片付き、祖父の家でシドと再会しようとしたリヴァーが、何者かが仕掛けた毒物に触れて昏倒。生死不明のまま、シーズン6は幕を下ろします。


ラムとタヴァナー――狸の化かし合いこそ、このシリーズの醍醐味
今シーズンで最も見応えがあったのは、やはりラムとタヴァナーの攻防でした。

振り返れば、本シリーズの最大の牽引力はこの二人の化かし合いにあります。タヴァナーは巨大組織の頂点で権勢を振るい、冷徹な権謀術数を巡らせる。対するラムは、泥舟のような窓際部署にいながら、独自の情報網と鋭敏な嗅覚でその策略を涼しい顔で見破っていく。

今回、明白に失態を演じたのはタヴァナーでした。自ら主導した工作が綻びを見せ、保身と火消しのために現場を危険に晒した挙句、犠牲者まで出してしまった。本来なら長官の椅子を追われて当然の大スキャンダルです。見ている側としても「今回ばかりは手痛いしっぺ返しを食らうのではないか」と思わせられます。

ところが、そうは問屋が卸しません。

窮地に陥ったタヴァナーに、あろうことかラムが救いの手を差し伸べるのです。むろん、そこにセンチメンタルな善意など微塵もありません。ラムの最優先事項はあくまで自分の部下を守ることであり、その手段としてタヴァナーを助け、弱みを握る道を選んだに過ぎない。

結果としてタヴァナーは失脚を免れたものの、ラムに対して決して小さくない「貸し」を作ることになりました。

ここが実におもしろいところです。組織図の上では長官であるタヴァナーが圧倒的な上位にありながら、情報戦と実質的な駆け引きにおいては、常にラムが優位に立つ。組織の肩書きと、現場の力関係が鮮やかに逆転しているのです。

敵対しているようでいて、いざとなれば共謀する。相手の実力を認めつつも、決して背中は見せない。まさに老獪な狸同士の化かし合いであり、このヒリヒリとした緊張感こそがシリーズ随一の旨味だと言えます。


リヴァーと父親――複雑な息子と、ドライな父親
もう一つの見どころは、リヴァーと実父フランクの対面シーンでした。

血のつながりはあるものの、まともな親子の情など介在しない二人。フランクは他者を駒としか見なさない冷酷無比なプロフェッショナルであり、リヴァーはそんな父親に対して割り切れない愛憎と葛藤を抱えています。

印象的だったのは、対峙する二人の圧倒的な温度差です。父親という存在にどうしても感情を揺さぶられてしまうリヴァーに対し、フランクの態度はどこまでも醒めていてドライ。安っぽいお涙頂戴の親子ドラマに逃げず、命のやり取りをするスパイ同士の冷え切った空気感の中に、断ち切れない血縁の気配がほのかに漂う――その抑制の効いた演出が見事でした。

育ての親であり、スパイとしての道標でもあった祖父デイヴィッドを亡くした直後に、忌むべき実父と対峙する。リヴァーにとっては、己が何者として生きるべきかを突きつけられる過酷なシーズンだったとも言えます。


リヴァーはこれからも「ダブル主人公」なのか
気になるのは、やはりラストにおけるリヴァーの処遇です。祖父の家で毒物に倒れ、生死が定かでないまま途切れる幕切れは、実にショッキングでした。

原作小説では一命を取り留めるものの、長期の療養生活を余儀なくされる展開をたどります。ドラマ版がどこまで原作に準拠するかは未知数ですが、今後の作品構造においてリヴァーがどう位置づけられるのか、大いに興味をそそられます。

これまでのドラマ版は、実質的に「ラムとリヴァーのダブル主人公」として機能してきました。現場を駆け回り、トラブルに巻き込まれながらアクションを担う「動」のリヴァー。そしてデスクで煙草をくゆらせ、背後で盤面を動かす「静」のラム。この二人の役割分担が、エンターテインメントとして抜群の推進力を生んでいたのは間違いありません。

ただ、もともとの原作小説は、リヴァー個人の英雄譚というよりもスラウハウスの面々を描く群像劇の色合いが濃く、巻によってはリヴァーの出番が激減するものもあります。そう考えると、今回の結末を契機に、ドラマ版も群像劇としての側面を強めていく転換点になるのかもしれません。

さらに外野の事情として、リヴァー役のジャック・ロウデンが次期ジェームズ・ボンドの有力候補として取り沙汰されている点も気になるところです。仮に007への抜擢が決まれば、スケジュールの兼ね合いで本作への関わり方が変わる可能性も否定できません。

とはいえ、ゲイリー・オールドマン演じるジャクソン・ラムという怪物がどっしりと中央に居座っている限り、このシリーズの屋台骨が揺らぐことはないでしょう。脇を固めるメンバーたちのドラマへ比重を移したとしても、十分に濃密な物語を紡げるはずです。

複雑なのに、最後にはすっと腑に落ちる快感
毎シーズン感嘆させられるのは、脚本の構成力の高さです。

序盤は誰が敵で誰が味方なのか、何が目的なのかすら判然としない。ひとつの事件を追っていたはずが、別のトラブルが割り込み、背後の権力闘争や過去の遺恨が幾重にも絡み合っていく。一見すると迷宮のようでありながら、最終話に至るとすべてのピースがピタリとはまり、見事な一本の構図が立ち現れます。

「給与未払い」というスラウハウスらしい脱力感あふれる日常の綻びから、要人の暗殺、シドの生還、フランクの影、そしてタヴァナーの失策へと繋がっていく流れの美しさ。

そこへ緩急自在のアクションと、ラムによる強烈な毒舌とブラックユーモアが差し込まれます。シリアスなサスペンスの合間にふっと気の抜けた会話が挟まれたかと思えば、次の瞬間にはコーやフライトのようにあっけなく主要人物が命を落とす。この容赦のなさと、決して湿っぽくならない乾いたユーモアの同居こそが、本シリーズの真骨頂です。

スパイアクション、骨太な政治劇、そして上質なコメディ。この三つの絶妙な配合バランスが、シーズン6を迎えてもなお衰えることなく維持されていることには感服するしかありません。


次のシーズンを待ちわびて
見終えた直後の素直な感想は、「今回も文句なしに面白かった」という一言に尽きます。

無駄のない全6話構成は、ストーリーの緊張感を削ぐことなく、一気見の快感を与えてくれます。細かな伏線や人物同士の微妙な駆け引きを味わう上でも、間を置かずに集中して鑑賞するスタイルが実にしっくりきます。

MI5長官という権力の頂点に立ちながら、手痛いミスでラムに大きな借りを作ってしまったタヴァナー。このいびつな貸し借りは、今後の二人の関係にどんな波紋を広げるのか。そして、毒に倒れたリヴァーはどのような姿で生還を果たすのか。

組織において、真に力を持つ者とは誰なのか――。地位や肩書きを盾にするタヴァナーと、窓際に追いやられながらも実質的な主導権を握り、泥をかぶって部下を守るラム。少なくとも今回の盤上においては、ラムの完勝だったと言っていいでしょう。

しかし、あのタヴァナーが大人しく負けを認めたままでいるはずもありません。次はどちらがどちらを化かすのか。そんな先々の展開に思いを馳せながら、シーズン7の配信を首を長くして待ちたいと思います。


#AppleTV
#窓際のスパイ
#slowhorses
#シーズン6

読書録「日本人が知らないアメリカ」:ニュースの表側だけでは見えてこない、アメリカの「B面」を知る

『日本人が読書録「日本人が知らないアメリカ」:ニュースの表側だけでは見えてこない、アメリカの「B面」を知る知らないアメリカ――福音派、AI、ジャズ、テック右派、そして選挙』

著者:加藤喜之・竹下隆一郎
出版:文藝春秋(文春新書)

f:id:aso4045:20261025094935j:image

 

気になっていた『福音派』から、もう一冊へ

もともと加藤喜之さんの『福音派――終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(中公新書)が評判になっていて、読んでみたいと思っていました。

アメリカの政治を考えるうえで、キリスト教福音派の存在は無視できません。特にトランプ政権を支える宗教的な背景には以前から関心があったんですが、なかなか手を出せずにいたんですね。

そんなとき、TBS CROSS DIGで加藤さんが竹下隆一郎さんと一緒に『BACKSTAGE AMERICA』という番組をやっていることを知りました。

こちらも気になっていたんですが、「先に『福音派』を読んでから見た方がいいかな」なんて思っているうちに、番組の回数はどんどん増えていく。

何回かは見たものの、全部を追いかけることもできない。そんな状態でした。

そこへ、Xで文藝春秋の村井さんがこの本をかなり褒めているのを見かけました。

だったら、この機会に一度、番組で語られてきたことをまとめて読んでみようか。

そんな経緯で購入したのが、この『日本人が知らないアメリカ』です。

結果として、非常に面白かったし、ためになる読書になりました。

 

アメリカの「A面」と「B面」

本書の中心にあるのは、アメリカの「A面」と「B面」という考え方です。

僕らが普段、ニュースやマスメディアを通して見ているアメリカは、どうしても表側のアメリカになりがちです。

大統領の発言、議会の動き、共和党と民主党の対立、ウォール街やシリコンバレーの動向。あるいは自由や民主主義、多様性といったアメリカの公式な理念。

これが、いわば「A面」。

一方、その背後には、アメリカ独特の宗教観や歴史認識、地域社会の価値観、人種や移民をめぐる複雑な感情、さらには最先端のテクノロジーと結びついた新しい政治思想などが存在しています。

こちらが「B面」です。

しかも、このB面は単に社会の裏側にひっそりと存在しているわけではありません。

むしろ、トランプ現象に象徴されるように、これまで政治の中心からは見えにくかった価値観や思想が、いまやアメリカを動かす大きな力になっている。

本書は、そうしたアメリカのB面を、さまざまな角度から紹介しようという一冊です。

扱うテーマは実に幅広い。

地域、帝国、移民、食文化、宗教、建国250周年、ファッション、テクノロジー、音楽、そして政治。

全10章にわたって、現代アメリカを理解するための切り口が提示されています。

個人的には、宗教やテクノロジーの話に特に関心がありましたが、食文化やファッション、ジャズやヒップホップからアメリカ社会を読み解こうという構成も面白い。

政治を政治だけで説明しようとしないんですね。

例えば、福音派の宗教観を理解すれば、トランプ支持の背景が少し違って見えてきます。

ジャズやヒップホップの歴史をたどれば、そこに人種差別や文化的抵抗だけでなく、アメリカの資本主義や国家の思惑まで見えてくる。

また、自由や革新の象徴だったシリコンバレーから、国家権力に接近する「テック右派」が台頭しているという話も、単純な保守対リベラルの図式では理解できません。

それぞれのテーマが、現在のアメリカ政治を別の角度から照らし出しているわけです。

 

番組『BACKSTAGE AMERICA』と二人の著者

この本のベースになっているのが、TBS CROSS DIG with BloombergのYouTube番組『BACKSTAGE AMERICA』です。

2026年2月に始まった番組で、ニュースだけでは見えないアメリカの歴史や思想を掘り下げていく、というのが基本的なコンセプト。

出演しているのが、加藤喜之さんと竹下隆一郎さんです。

加藤さんは立教大学文学部教授で、専門は思想史や宗教学。

プリンストン神学大学院で博士号を取得し、東京基督教大学やケンブリッジ大学などでの研究・教育経験もある方です。

先ほど触れた『福音派』は、新書大賞2026で3位に選ばれています。

アメリカの宗教的な思想を、歴史的な背景も踏まえながら説明できるというところが、この方の大きな強みなんだと思います。

一方の竹下さんは、朝日新聞の記者を経て、ハフポスト日本版の編集長、ビジネス映像メディアPIVOTの創業メンバーなどを経験し、現在はTBS CROSS DIGのチーフコンテンツオフィサーを務めています。

こちらは、メディアの世界で長く仕事をしてきた人ですね。

情報がどのように伝えられ、人々の認識や政治に影響していくのか。そうした視点を持っていることが、加藤さんとの組み合わせの面白さにもなっているように思います。

そして重要なのは、二人ともアメリカで生活した経験を持っていることです。

本書では、単に文献やニュースを整理するだけでなく、それぞれがアメリカで暮らしてきた経験も踏まえながら話が進みます。

これが結構大きい。

日本から見ていると、どうしてもアメリカを一つの国、一つの価値観で捉えてしまいがちです。

でも実際には、住む地域が違えば生活感覚も違うし、宗教や人種、社会階層によって物事の見え方も大きく異なる。

そうした感覚を、具体的なエピソードや歴史的な資料を交えて説明してくれるところに、この本の良さがあります。

 

一つの結論に収斂させない面白さ

もう一つ良いと思ったのは、二人が必ずしも同じ立場で話しているわけではないことです。

これは本書を読むうえで、かなり重要なポイントだったように思います。

例えば、ブラック・ライブズ・マターズ(BLM)運動のような問題についても、評価や受け止め方は一様ではありません。

アメリカの人種差別の歴史をどう理解するのか。

差別に抗議する運動をどう評価するのか。

その運動の手法や社会的な影響については、どう考えるのか。

こうした問題は、単純に賛成か反対かで割り切れるものでもありません。

加藤さんと竹下さんも、すべての論点について意見が一致しているわけではないようです。

ただ、違いがあるからといって、相手の見方を否定して議論を終わらせるわけではない。

それぞれの経験や専門性を踏まえながら、別の角度から問題を捉えようとしている。

この姿勢が良かったですね。

アメリカの政治や社会をめぐる議論は、どうしても分断や対立を強調するものになりがちです。

トランプ支持者をどう見るか。福音派をどう評価するか。リベラル派の主張は正しいのか。

そうした問いに対して、最初から一つの答えを用意しているのではなく、異なる意見や考え方を紹介しながら、読者自身が考えるための材料を提供してくれる。

僕には、その点が好ましく感じられました。

特に、アメリカの宗教的保守主義やテック右派のように、日本から見ると理解しにくい思想を扱う際には、最初から善悪を決めつけず、まずその考え方がどこから生まれてきたのかを知ることが大切なんだと思います。

 

深掘りよりも、視野を広げてくれる一冊

では、この本がそれぞれのテーマを徹底的に掘り下げているのかというと、そこは少し違います。

率直に言えば、そこまで深い本ではありません。

これは悪い意味で言っているわけではないんです。

そもそも、これだけ幅広いテーマを一冊の新書で取り上げるのですから、それぞれの問題について専門書並みの深さを求めるのは無理があります。

例えば、福音派の歴史や政治との関係を本格的に知りたいのであれば、加藤さんの『福音派』を読んだ方がいいでしょう。

テック右派の思想についても、ピーター・ティールやカーティス・ヤーヴィンなどの思想を詳しく理解しようとすれば、また別の資料が必要になると思います。

ジャズやヒップホップの歴史についても同じです。

ただ、この本の良さは、むしろそこにあるように感じました。

一つひとつのテーマを徹底的に掘り下げるのではなく、さまざまな入口を用意して、アメリカ社会を立体的に見せてくれる。

自分が知っていると思っていたことにも、違う見方がある。

あまり関心を持っていなかった分野にも、現在の政治につながる重要な背景がある。

そうした発見を積み重ねていくタイプの本なんですね。

しかも、話の中でさまざまな書籍や資料、映画などが紹介されています。

その点でも、よくできた案内書だと思いました。

各章には基になった番組への導線もあり、本を読んで興味を持ったテーマについて、実際の対談を見に行くこともできます。

本を読んで終わりではなく、そこから別の本や映像へと関心を広げていける。

この作りは丁寧ですね。

 

アメリカを一つの価値観で捉えない

読んでいて改めて感じたのは、アメリカという国を、僕らは案外単純化して理解してきたのかもしれないということです。

自由と民主主義の国。

あるいは、トランプの登場によって分断が進む国。

もちろん、どちらもアメリカの一面ではあるんでしょう。

でも、宗教的な保守主義と最先端のテクノロジーが結びついたり、自由を重視する社会から強い国家権力を求める思想が生まれたりする。

社会の変革を求める運動にも、さまざまな方向性がある。

そこには単純な保守とリベラルの対立では整理できない、複雑な歴史や文化の積み重ねがあります。

僕自身、どちらかといえば社会を変えていくことに共感する立場ですが、だからといって、リベラルと呼ばれる側の考え方がいつも正しいとは思っていません。

むしろ、その立場が既存の秩序を守る側に回ってしまうこともあるでしょう。

逆に、既存の秩序に反発しているからといって、その運動が必ずしも自由や民主主義を強める方向に向かうわけでもない。

そうしたことを考える際にも、アメリカのB面を知るという本書の切り口は、なかなか役立つものだと思いました。

もっとも、A面とB面という区分も、あくまで理解するための道具です。

B面にこそ本当のアメリカがある、という話でもないでしょう。

いろいろな価値観や思想が、時には対立し、時には思いがけない形で結びつきながら、社会を動かしていく。

その複雑さを知ることに意味があるんだと思います。

 

次の読書につながる、良い経験でした

そんなわけで、非常に興味深く読むことができました。

個々のテーマについて、もっと深く知りたいと思う部分はあります。

でも、それはこの本の物足りなさというより、むしろ新しい関心を持たせてくれたということなんでしょうね。

番組を断片的に見ていたときにはつかみきれなかった全体像も、こうして本としてまとめて読むことで、かなり整理できました。

そして、紹介されていた資料や書籍にも、いくつか目を通してみたいと思っています。

もちろん、最初に気になっていた加藤さんの『福音派』も、改めて読んでみたい一冊です。

一冊の本によって、知らなかったことを知る。

それだけでなく、自分が知っていると思っていたことについても、別の見方があることに気づく。

さらに、次に読みたい本が増えていく。

そういう意味では、なかなか良い読書経験だったと思います。

 

#読書感想文
#日本人が知らないアメリカ
#加藤喜之・竹下隆一郎