鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

良くも悪くも日本的:読書録「棋士とAIはどう戦ってきたか」

棋士とAIはどう戦ってきたか 人間vs.人工知能の激闘の歴史
著者:松本博文
出版:新書y(洋泉社


今年の電王戦。
ついに「名人」(佐藤名人)がAI(ponanza)に二連敗し、敗れました。
名実ともに、
「コンユーター将棋がプロ棋士よりも強い」
ことが証明された「事件」。
そのタイミングで、今までの経緯を振り返るという意味で、本書を読んでみました。僕は将棋はささないんですが、「棋士」は大好きなんで、この一連の経緯は興味があって追いかけてたんですよね。


将棋ソフトの勃興期、そのレベルアップの変遷から女子プロとの対決、米長戦、第1期電王戦、そして「名人」が破れる決着となる第2期電王戦。


懐かしの米長名人の外連味たっぷりのパフォーマンスwを中心に、戦いに臨むプロ棋士たちの葛藤、開発者たちの志etc
プロ棋士側・開発者側の「人間ドラマ」がたっぷり楽しめました(白眉は電王戦FINAL最終戦のAIサイドの「投了」事件でしょう)。
「AIとか言ってるけど、やっぱり『人間ドラマ』が面白いんだよなぁ」
と思いながら読み進め、でもラストに残るのはそう思った自分への「苦味」でした。


それを突きつけるのが、
「ソフト指し不正疑惑」
そして
「AlfaGoの囲碁界の席巻」です。


前者の経緯はともかく、その根本には、
<コンピューター将棋はプロ棋士よりも強いのだ>
という認識の不足がありました。その点を正しく認識していれば、対処方法はいくらでもあった。
ただ色々な枠組みをはめる中から、「人間ドラマ」のストーリーを生み出す仕組みを作ってきたことで、枠組みを作った側自身もその仕組みに絡め取らめてしまった(端的に言えば、「名人(羽生)が負けてないんだからまだプロ棋士の方が強い(かも)」という、よく分からない思い込みです。僕もその一人ではありましたが)。
本書を読むとよくわかりますが、実際には多分「米長戦」のあたりでプロ棋士とコンピューター将棋の実力は拮抗し、以降はコンピューター将棋の実力が凌駕し続けているんですよね(AIの実力は下がりません。ここが素晴らしいし、恐ろしい)。
この「正しい認識」が、自分たちが作った「虚構」に隠れてしまい、(スマホの持ち込み禁止等の)「簡単な対処手段」すら講じることを怠らせてしまった。
「不正疑惑」の根底にはそんな構図が見えます。


それを決定的に晒し、将棋界とコンピューター将棋が「共に」構築してきた「虚構」の構図を明らかにしてしまったのが、「AlfaGo」です。


巨額の資本をつぎ込み、グロール企業が開発し、イノベーションをつぎ込んだ「ソフト」
世界的なゲーム人口とプレイ環境がある中、「ソフト」とオープンに戦い、その中でトッププレイヤーも含め、自分たちの「実力」(AIは既に自分たちを凌駕している)を公式に認めるプレイヤーが普通に存在する囲碁


それに対して、コンピューター将棋と将棋界のあり方は対照的ですらあり、極めて「日本的
でもあるように見えます。(いわゆる「ガラパゴス」的)


コンピューター将棋が極めて「個人的」な趣味の範疇であること
協会がプロ棋士をコントロールし、「戦いの場」すら囲い込み、「同調圧力」の気配を強く感じさせる将棋界


確かにこの構図によって、将棋界は「人間vsAI」と言う戦いを長引かせ、「プロ棋士の強さ」のイメージを守りつつ、戦いの「人間ドラマ」を作ることができました。
僕もそれを楽しんだ一人。
でもその結果残ったものは?


夢想するなら米長戦のタイミングで、羽生名人が登場したら、です。
あのタイミングなら、十分羽生氏の勝機はあった。
そこで「人間の勝利」を強く見せつけ、そこから毎年「人間vsAI」の「頂上対決」を続けてたらどうだったでしょう。
もっと人々の興味を引き、もしかしたら巨大な資本がコンピューター将棋の開発に投入されたり、将棋人口が世界に広がったりといった展開があったかもしれない。
そうしたらその先にはAI開発の先端を行く日本の姿と、世界にプレイヤー人口を広げた将棋界の姿があったかもしれない。
もしそれがムリだったとしても、今と何がどれほど変わるでしょうか?


後知恵?
その通りですw。
でもそう言うことを考えないと、この手のことは繰り返されます。だってこの話自体が「ガラケー」の末路のようじゃないですか。


人間vsコンピューター将棋
その顛末は実に興味深い「人間ドラマ」の連続です。それだけで本当に楽しめます。
でもその先には?
残ったのは一抹の「苦味」でした。