鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

(メモ)「危機と人類」:ドイツの戦後対応

第二次世界大戦後のドイツと日本の周辺諸国への謝罪の姿勢が大きく違う…と言うのはよく言われること。

ただこれについては僕は、

 

「ドイツに関してはヒトラーをはじめ主要権力者が死亡した<ナチス>に全てをおっかぶせ、一般国民は<ナチスの被害者>という立ち位置にしたから謝罪がしやすかった」(すべてはナチスのせいにした)

 

と思ってました。

ここら辺、「エロイカより愛を込めて」で「鉄のクラウス」が「国防軍だった父親をナチスのクソ野郎と一緒にするな」みたいな感じで激怒してたシーンの影響を受けているのかもw。

 

 

ただ本書を読むと、そうも言い切れないとこがありそうです。

 

 

一つは1958年以降の「フリッツ・バウアー」の活動。

ドイツ系ユダヤ人の法律家であったバウアーは検事長として、ナチスではなかった一般のドイツ人の「人道の罪」を裁いたのです。(「アイヒマンを追い詰めた男」として有名なようですが、より幅広い動きをしてたようです)


<ドイツ人が犯した人道に対する罪を自分は追及している。ナチス国家の法律は違法であった。そのような法律に従っていたことは行動の言い訳にはならない。人道に対する罪を正当化できる法律など存在しない。善悪のきじゅんは一人ひとりが持つべきであり、政府に左右されるものではない。>


その過程で、<自分は強制されたのだと弁解していた被告の多くが、実際には強制ではなくみずからの信念にもとづいて行動していたことが明らかとなった。>


バウアーの追求自体はほとんどが身を結ばず、60年代に被告はつぎつぎと無罪となったとのこと。

しかし<ナチスの犯罪行為は数人の邪悪な指導者だけがおこなったのではない。多数の、ごくふつうの兵士や役人がナチスの命令を実行した。(中略)そして、彼らの多くが、西ドイツ政府の交換となっていた。>

 


この「可視化」を踏まえて、68年の学生運動は、若者の親世代への異議申し立てとして盛り上がった。

日本の学生運動も同様の側面があると思いますが、この「可視化」の重みが大きく違うのではないかと推察します。

 

 

もう一つは「地政学的な制約」。

具体的にはヴィリー・ブラントの周辺諸国への謝罪の姿勢(ワルシャワ・ゲットーで跪いて謝罪したことが有名です)から、ヘルムート・コールの東西ドイツ統一への流れの背景に現れます。


(その評価そのものは色々論議もできますが)第一次・第二次世界大戦を起こし、周辺諸国にも多大な被害をもたらしたこと。

(島国日本と違い)その多くの国々と、敗戦後も国境を接して関係して行かざるを得ないこと。

東西に分離された国家の回復は、自ら主体的にはなしえず、その周辺諸国の理解と、覇権大国(アメリカとソ連)の了解が必要であったこと。


これらのことがドイツの外交姿勢を制約し、周辺諸国との関係性を強化しつつ、理解と納得を得ながら国家運営をしていく必要があったという点です。

先に挙げた「自ら戦争犯罪を裁く」という姿勢と呼応することで、ドイツの謝罪外交は深まったとも言えるのではないか、と。

 

 

もちろんEUの中心国となり、経済的「勝ち組」となったことで、周辺国の「邪心」を呼んでいる気配もありますし、ドイツ国民自身の「慢心」も生まれているように見えます。

東西ドイツを統一し、ドイツとして国力を大きく伸ばしたことで、ある種の目的を達成したことが、ドイツにとって一つの「曲がり角」になる可能性はないとは言えないでしょう。

 


ただドイツの戦後歴史のこういう側面は、同じく敗戦国である日本も認識しておくべきだと改めて思いました。

(本書もそうですが)「ドイツを見習え」とは、必ずいわれることですからね。