ドイツで大ヒットしたという法廷映画。
殺害された大企業の経営者。
犯人の老人は<黙秘>を続ける。
簡単に裁かれると思われた事件の裏には、国家を揺るがすような<謎>が…
…ってまあ、
「その<謎>って<ナチス>絡みだよね」
と思いながら見てたら、案の定「<ナチス>絡み」w。
じゃあ、興を削がれたかというと、全くそんなことはなくて、ラストまで見入ってしまいました。
イイ映画ですやん、コレ!
日本に重ねれば、第二次世界大戦後、日本においても「公職追放」が実施されます。
そのことで「新しい力」が日本の復興に尽力できるようになった一方、多くの重要ポストから主要人物が去らざるを得なくなったことで、国家運営が円滑に進まなくなった面もあるでしょう。
この流れは共産勢力の伸長に対する米国の警戒心などもあって「逆コース」の中で緩和される動きになり、平和条約締結に合わせて解除されます。(1952年)
そして「もはや戦後ではない」と宣言されるのが1957年。
ただ国内に向けた「宣言」が、決して国際的に共有されたものなのではない…という現実を、今、僕たちは目の当たりにもしています。
この映画でポイントとなるのは1960年代後半のドイツでのある法律の制定です。
そこには、「ナチス時代の<罪>で裁かれるのは、もうそろそろイイのではないか?』との思いがあったのではないでしょうか?
戦後、国家・行政・民間で要職につき、活躍し、国を支える人材となっている人も多い中で、彼らを「過去の過ち」で断罪することは、国家としてもマイナスなのではないか?
…そんな考えが背景にあったのではないでしょうか?
「コリーニ」は<個人>が犯した<罪>に復讐をします。
しかしその<断罪>は、「過去の過ちを忘れよう」とする<国家>につけつけられる訳です。
「あなたたちは忘れたいと思ってるかもしれない。でも私には忘れることができないのだ」
…と。
原作者は本作を発表するにあたって、自分自身の祖父がナチス関係者であったことを明らかにしているようです。
その上で本作を書いている。
「忘れるべきではない」
と。
正直、60年代にどういう判断をすべきだったのかは、僕にはなんとも言えません。
ただ「歴史が証明する」という観点から言えば、そこにあった「罪」は「罪」としか言いようがない。
時代が経つ中で、加害者の中では風化しても、被害者の中でそれが風化することはない。
…時間が経過することで、双方が少しでも客観的な視野を持ち得るとき、「歴史」に語らせる必要がある…というのが本作が主張していることなんじゃないかなぁ、なんて思ったりもします。
作品としてはラストシーンは「甘過ぎ」ますけどね。
いや、もう「涙腺決壊」だったんですけどw。