鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

僕の読書のピークは質量ともに80年代まで…かな?:読書録「日本の同時代小説」

・日本の同時代小説

著者:斎藤美奈子

出版:岩波新書

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「純文学とは何か」を読んで、「で、結局何なん?」と放り出されちゃった恨みってわけでもありませんがw、60年代以降の「現代小説(同時代小説)」を概覧する<同時代文学史>として、読んでみました。

「純文学とは何か」でも作者(小谷野敦)は漠然とした定義に触れてはいるんですが、斎藤さんはもっとスパッと言ってます。


<小説は「何を(WHAT)いかに(HOW)書くか」が問われるジャンルです。その伝でいくと「HOW(形式)」に力点があるのが純文学、「WHAT(内容)」に力点があるのがエンターテインメント。>


<むろんその境界線は曖昧ですが>悪くない定義だと思いますし、この同時代文学史を読むと、結局はそこなのかなぁと思います。

だからこそ「純文学」が袋小路化してし待った、という点ででもですね。

小谷野氏とも共通するのは、「結局、グループ(白樺派とか)や著者によってジャンル分けされるんじゃなくて、作品ごとに判断するしかない」ってスタンスで、だからこそ本書ではどっさり「作品」が紹介されています。


時代の区分はこんな感じ。


1960年代 知識人の凋落

1970年代 記録文学の時代

1980年代 遊園地化する純文学

1990年代 女性作家の台頭

2000年代 戦争と格差社会

2010年代 ディストピアを超えて


まあ、「年代」でこういうのを括るのはどう?ってのもありますが、存外感覚的にはフィットします。

ちょっと2000年代2010年代については思想性が出すぎな気もしますが、ここら辺はまだ「歴史」として総括するには早いのかもしれません。


膨大な作品を眺めながら、自分自身に引き寄せて思ったのは、

「僕は80年代くらいまでは結構作品をフォローしてるなぁ」

ってこと。

これに比して2000年代2010年代は格段に落ちる印象です。


これを「日本文学の盛衰」とつなげて考えてもいいんですが、ストレートには

「社会人になって読む時間がなくなった」

ってのが正直なところでしょうw。

時間と体力を投入する分野が他にも増えたことで、減少度合いが急カーブになっちゃったってのもあるでしょうが。

(端的にはネット・スマホ・SNSかもしれませんが、例えば「映画」「音楽」ひとつ取っても、その中でアクセスのハードルが圧倒的に低くなって、読書と競合するようになった状況があります)

もっとも、「じゃあ、時間や体力があったら、今の純文学系の作品を読むか?」って言われると、「?」よりは「NO」なのでw、そこら辺、ジャンルや作品の力が落ちてきてるってのはあると言ってもいいかもしれません。


本書は単なる「歴史概覧、作品紹介」に終わらず、斎藤さん自身の「評論性」も滲み出る内容になっています。

ここら辺、好き嫌いはあるし、賛否もあるでしょうが、「ラブ&ポップ」を書いた村上龍を「オッチョコチョイ」と評するあたりは笑えます。(「女ざかり」の丸谷才一もバッサリ)

結局、評論ってのは評する人の「好み」を反映せざるを得ないと思いますし、その点に自覚的でもある斎藤氏のバランスは悪くないと思います。

もちろん僕が賛同するかどうかは別ですがw。


最終章で作者は文学の「現実突破」の可能性に期待をしています。


<では今後の日本文学に未来はあるのか。>

<一九六〇年代、私小説の行き詰まりを打開したのは、若い作家が外の世界へ出て行く、文字通りの「航海記」でした。日本の同時代小説には、すでに十分な蓄積があります。冒険を恐れるな。時代の文学史はそこからはじまるように思います。>


全てがそういう作品である必要があるとは思いませんが、「被害者意識」や「袋小路」を超えた作品に出会いたいという思いには同感できます。


楽観視はできないですけどね。