・ネット右翼になった父
著者:鈴木大介
出版:講談社現代新書(Kindle版)
デイリー新潮のこの記事は興味深く読んだ覚えがありました。
<亡き父は晩年なぜ「ネット右翼」になってしまったのか>
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/07251101/?all=1
なので、その深掘りをした作品かと思って手に取ったんですが…。
「深掘り」は「深掘り」なんですが、「着地点」は予想と随分と違ったところになってました。
作者の最初の考え(記事の内容に重なります)は、「晩年になって判断力が衰えて来た父を<商業右翼>が洗脳した」みたいな感じ。
<父の中では、古き良き美しいニッポンに対する慕情や喪失感は確実にあったのだ。
その気持ちに思い至って、ようやく腑に落ちた。
偏向言説者に変節したのちの父の中では、その美しかったニッポンに対する喪失感が、「それは何者かによって奪われた」「何かによって変えられてしまった」という被害者感情に置き換えられていた。その被害者感情こそが、以前の父からは感じられなかったものだったと気づいたとき、僕の中に「父は何者かに利用され、変えられたのだ」という答えが浮き彫りになってきた。
父は、その胸に抱えていた喪失感を、ビジネスに利用されたのだ。父の歴史を喰い荒らしてくれた輩がいたのだ。>
ただ作者自身、父の死から時間が少し経つと、この考えには違和感を感じるようになります。
そもそも亡くなった父親は、退職後に中国語の語学留学に出かけるような人物であり、ハングルについても、その「合理性」を評価していたような人。
それが「嫌韓嫌中」の<ネット右翼>に簡単になったりするものだろうか?
そこで次の仮説。
<ここに至って、僕は新たな推論を立てた。
それは、当時父とその周囲にいた同世代のコミュニティの中で、「排外的ワード」「リベラル政党への疑義」といったものが、共通言語や雑談上のテーマ、いわば「飲みの席での娯楽的なネタ(話題)」だったのではないかということ。>
ありそうな話。
「嫌中嫌韓」ネタは居酒屋話になりそうですからね。
…しかしまた作者は違和感を感じます。
亡き父は人と群れたり、流行りものを追いかけたりすることは極端に嫌う人だった。
その人が周りに流されて極端に右傾化したりするものだろうか?
そこから作者は父親の人生の歩みやひととなり等に踏み込んでいきます。
残されたPCの中身をチェックしたり、「ネット右翼」の定義やポイントを整理し、それらと父親の言動、考え方、振る舞いなどとの合致点や相違点を、家族や周りの人たちの意見などを参考に確認していきます。
それは「ネット右翼」というものを考え、整理する過程であり、日本社会におけるイデオロギー的な流れを検証する過程でもあります。
その中で作者自身も、自分の経験を思い返しつつ、自分の立ち位置を確認していくことになります。
その結論。
<結論はこうだ。
・父はネット右翼ではなく、保守ですらなく、自身の面白いと思うもの、好奇心が湧くものを何でも取り入れる、多様性のあるパーソナリティの持ち主だった
・一億総左翼の時代に青春時代を過ごした父にとって、左翼こそ「価値観が定食メニュー化した人々」であり、権威であり、「左翼的なものが嫌い」「朝日新聞嫌い」といった志向が生まれた
・嫌韓については、父が育った当時、働いて社会生活を送る中で、リアルに経験した在日外国人との軋轢も無視できない
・保守的・ネット右翼的なコンテンツへの接点は、「左翼的なもの全般への批判感情」に加え、「お箸の文化圏 欧米覇権主義」といったパン・アジア主義的な世界観を持つ中で、「仲間であるべきなのに手を振り払うアジア =中韓の政体」への批判感情から
・右傾したコンテンツに触れる中で、シングルマザーや生活困窮者といった弱者への自己責任論について「架空の当事者像」を立ち上げ、「借りてきたようなヘイト言説」やスラングも取り入れ、日常生活で口にするように
・ジェンダーを中心に「差別発言の幅」が広がる中、価値観のブラッシュアップができないという、年代(高齢)の問題も背景にあった
これが、晩節の父が偏向発言を口にし続けた、大まかな流れだと思う。>
<父は決してわかりやすく価値観の多様性を失ったネット右翼ではなかったし、保守ですらなかった。父は部分的にそれらの志向を持ちながらも、リベラルな部分もあり、むしろ経済面など音痴なジャンルもある、どこにでもいる戦中生まれのじいさんだった。>
ではなぜ、その父を「ネット右翼」と考えてしまったのか。
その理由は作者自身の持つ<歪み>だったのだ…というのが作者のたどり着いた答えになる。
<確かに父はヘイトなネットスラングを口にし、弱者に対する無理解な発言もあった。けれど、それをもって父を多様性を喪失し「価値観が定食メニュー化した」ネット右翼だと一方的に決めつけてしまったのは、僕自身の中に「ネット右翼的なものへの嫌悪」と、ネット右翼と同一視した「女性嫌悪者」への激しい怒りがあったからだ。
父をネット右翼扱いした根底にあったのは、あくまで僕の中にあるアレルギーだった。とすれば、ネット右翼という「仮想敵」を立ててその像を父と重ね、そこに怒りを募らせていた僕は、保守系メディアから得た見えない仮想敵を撃っていた父と全く変わらない。もしかしたら父よりも僕自身の価値観の方が「定食メニュー化」していたかもしれない。>
作者の姉の発言。
<「おとんは大介のこと、仲間であり、家族の誰よりもいろいろなジャンルの話題が通じる相手だと思っていただろうし、筆一本で食べている、弱い人のために筆をとっている息子を誇らしく思っていたはず。おとんの口にしたスラングは、そんな誇らしい息子への語りかけと、マウンティング、ちょっと悔し紛れの『この言葉知ってる? 俺知ってるぜ?』的な感じの両方があったんじゃないのって私は思う」>
<姉は父のヘイトスラングに対する僕の感情について、「大介のアレルギーは、かゆくて全身に出た蕁麻疹をかきむしって血が滲んでいるような状態を超えて、もはやアナフィラキシー(命にかかわる重篤なアレルギー反応)の域だった」と評したが、まさに的を射た表現だったと思う。>
作者自身、「悲劇」という表現を使っていますが、なんともやりきれない「すれ違い」であり、「悲劇」。
そしてその根本にあるのが作者自身の<不寛容>であったのではないかという結論。
いやはやなんとも…。
と同時に、
「だとしたらこの題名は違うんじゃないの?」
だって作者の父親は「ネット右翼」になんてなってないんだから。
それは作者の勝手な決めつけだったんだから。
ここのところ保守サイドから見たリベラルの偏狭さみたいなものを考えることが多かったんで、今回は保守サイドのデマゴーグ的な側面に関する本を読もうかと思ってこの作品に手に取ったんですが、まさかこれも「リベラルの偏狭さ」に関するテーマに行き着くことになろうとは予想してなかったです。
まあ現時点で言うと、そっちの方が問題になってるってことかもしれませんが…。
(保守サイドのデマゴーグ的なものは、トランプ政権の終着点としての「議会突入事件」でかなり露わになっちゃってるってのもあるかもしれません)
個人的には、この作者の父が「元・損保会社社員」だったこともあって、年代の近い作者より、この父親の方にシンパシーを感じたりもしました。
ビジネスマンであり続けることは、どうしても「保守化」して行かざるを得ない部分がありますからね。
時代と世代の制約はあるにしても、この父親の考え方やスタンスは結構ビジネスマン「らしからぬ」ところがあって、それだけ「人間的魅力」のある人だったんじゃないかな…と。
それだけに組織の中じゃ苦労したのかもしれません。
とはいえ、ここまで「父親」のことを踏み込んで考えるって言うのはナカナカできることではないです。
少なくとも僕はできないなぁ〜。
読みながら、死んだ父や義父のことを考え、自分の子供たちとの関係性なんかにも思いを馳せたりしました。
何かまとまったことを書く気分にはなりませんがね。ここら辺はw。
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