鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

読書録「お父やんとオジさん」

・お父やんとオジさん<上・下>
著者:伊集院静
出版:講談社文庫



作者の代表作である「海峡」の外伝と言うか、続編と言うか・・・。
ただ内容的にはより「父親」寄りになってると言えるだろう。
朝鮮戦争時代の父親の「冒険譚」がメインだからね。


作品としては視点が結構移り変わるスタイルになっている。
冒頭とシメは作者の一人称。
次に作者の母親の視点から、終戦前後の状況や父親との出会いが語られ、母親の家族が朝鮮に引き揚げる経緯が描かれる。
続いて朝鮮サイドに舞台が移り、作者の「オジさん」の視点から、朝鮮戦争の悲惨な状況とその中で振り回される「オジさん」の姿が痛ましく語られる。
そしてついに父親の視点から、密航の末繰り広げられる朝鮮での「冒険」が冒険小説さながら語られ・・・という構成。
最初は「ちょっとどうかなぁ」と感じた視点の移動だけど、流れ的に父親の視点になったとき、「待ってました!」って感じになったからw、これはこれで効果的なんだろうね。
いや、実際、本書は作者の父親を主人公とする「冒険小説」と読んで、十分に成立する内容だと思う。


<『ただひとつやって欲しいことがある。一カ月したら、わしが上陸した場所に迎えに来てくれ・・・』
(中略)
『その日一日、そこで待機してくれ。わしが戻らなかったら引き揚げろ。それだけだ』>(p109)


<死はそこですべてのものを消滅させる。しかし滅びることのない死もあることを宗次郎は学んだ。
妻のために、義弟や妻の両親のために戦下の祖国に渡ってきたのではない。そのことは誰に説明してもわからないだろうと思った。>(p125)


全く、冒険小説のヒーローさながらw。


作者の父親だけでなく、その父、妻の父、オジをねらう近所の家長等、本書で出てくる「父親」像には一本筋の通った人物像が与えられている。
これは作者が幼少期から憧れていた「オジさん」の腰の座らなさぶりと対象的で、そこには作者自身の「男性像」に対する「後悔」があるのかもしれない。(オジさんの姿は、おそらく作者自身に重ねられているんじゃないかと思う)
・・・って言うか、


<長い間、ボクは間違っていた。上陸すれば生還できるかどうかわからぬ、あの当時の半島へ、父は母や叔父のために、いや家族のために平然と海を超えて行ったのだ・・・。父に済まないことをしていた。>(p374)


って思いっきり謝ってたりするんですがねw。


戦後混乱期から高度成長期を事業を拡大しながら乗り切って来た作者の「父親」には時代錯誤で男尊女卑的な粗野な部分が多くあったろう。
その過程には法律スレスレの部分を渡って来た局面もあったにちがいない。
作者自身の人生は、そうした父親への反発を軸にしていた面は少なからずあったと思うのだが、それでいてその存在感を認め、憧れる部分も強く持っていたという印象がある。
本書にはそう言う部分が強く出ているんだろうねぇ。


僕自身は未だにこういう家父長的なキャラクターに対する抵抗感は強いものがある。
ただ一方で震災は、昨日が今日につながり、明日となる平凡な「日常」が極めて危ういものだと言うことを明らかにした。
その中で、危機に対して毅然として立ち向かう父親の姿は、そりゃ頼もしく思えますわ。
作者がここんところ「大人の流儀」シリーズで示している父権的なスタンスなんかもここに繋がってるんだよな。


と言うわけで、個人的には思うところもあるんだけどw、小説としては実に面白いのも事実。
ワクワクしたよ。


しかしどこまで事実なんやろーねー。
こう言う父親持ったら、そりゃ息子としちゃ大変だわw。