鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

読書録「21世紀の自由論」

・21世紀の自由論 「優しいリアリズム」の時代へ
著者:佐々木利尚
出版:電子出版(Kindle版)

21世紀の自由論: 「優しいリアリズム」の時代へ (佐々木俊尚)

21世紀の自由論: 「優しいリアリズム」の時代へ (佐々木俊尚)



「ネット」が社会に与える影響について発言や活動をしている(一部「ウチごはん」もありますがw)作者が、「政治」を視野に入れて「社会論」を論じた作品。
「ネット」に関しても、新しい社会像を描く中で終盤に論じられているけど、中心は「現代」(+十数年の未来)にあります。
最近作でも「マイノリティ憑依」といったことについて考察してましたから、ここまで来るのは必然だったんでしょうね。


論の最初は「リベラル」と「保守」。
日本における「リベラル」と「保守」のあり方が、他国とは異なったスタンスになっているところを説き、その「有効性」が薄れていることを語ります。
「リベラル」「保守」ともに厳しいんですが、やや「リベラル」に厳しく読めるのは、僕自身が「心情サヨク」の世代だからでしょうかね。ただ語られていることには違和感はありませんでしたよ。
(戦後メディアが一貫してリベラルよりだっただけに、より厳しイスタンスになったっていうのはあるでしょうね(「マイノリティ憑依」などはその批判の中心的イシューです)。ただ個人的には現状は「リベラル」に対して世間全般が厳しくなっているだけに、「保守」のあり方にも問題意識を持つ必要があると感じています。そこらへん、安保法制をめぐるゴタゴタデ浮き彫りになってきてる感もありますが)


<問題は、そのような両極をいったん取り除き、ふつうの良識的な人たちの意見をどうやって政治の中にすくい上げていくかという仕組みを形成できていないことなのだ。>


「リベラル」でも「保守」でもない、もの言わぬ「グレー」な中間層の意見をどのようにして統治機構や思想の中に組み込んでいくべきなのか?
一方で、統治機構を支える「民主主義」が、GoogleやFacebookといった「グローバル企業」が社会基盤となっていく世界情勢の中でどこまで有効性を持ちえるのかとも思わなくはないのですが(ここ数日のギリシャの情勢なんかを見てても)、この問題意識は非常に「真っ当」だし、的を射てると思います。
(グローバル企業との関連では作者はいずれ来たるべき社会をこんな風に語ります。
<国民国家の領域を超越して、少数精鋭でつくられるグローバル企業と、それらグローバル企業が展開する生産や消費、サービスなどのさまざまなプラットフォーム。そしてその上で流動的に生きる個人という三位一体が、次の時代には世界の要素として成立していくことになるだろう。>
良し悪しは別として、この見立てには納得感があるんですが、どうでしょう?)


いずれ「来たるべき世界」。
しかしその前の混沌・長い過渡期においてどのように我々はふるまうべきか。
作者はそれを「優しいリアリズム」におきます。


<両極端に目を奪われることなく、そのあいだの中間のグレー部分を引き受けて、グレーをマネジメントすること。その際、人々の感情や不安、喜びを決して忘れないこと。これこそが優しいリアリズムである。正義を求めるのではなく、マネジメントによるバランスで情とリアルを求めることが、いま私たちの社会に求められている。>


その<優しいリアリズムを牽引する政治の主体は、もはや民主主義である必要はないのかもしれない。>とさえ、作者は語ります。
ここら辺、「反発」もあるでしょうが(例に挙げられるのが中国だったり、自民党一党支配態勢だったりするし)、「論理的にはあり得る」と僕は思います。
ただそのためには相当リアリスティックで実力のある「統治能力」が必要でもあるでしょう。
そういう意味で民主党政権は退潮せざるを得なかったと考えているのですが、憲法学者をめぐるアレコレや、先日の勉強会に関する騒動なんかを見ると、今の自民党のほうも相当に「統治能力」に陰りが見えてきているような・・・。
全体として本書の主張を受け入れつつも、「では今現在、どこに期待すべきなのか」と言う点において、逡巡せざるを得ないところが、僕自身のすっきりしないところではありますかね。


何にせよ、非常に広いスパンを持った作品で、単純に「良し悪し」を判断できるような作品じゃないと思います(僕の理解力の問題でしかないのかもしれませんが)。
読んで気持ちがザワつく。
でもそれって、悪くない作品の証拠なんじゃないかと思いますよ。
少なくとも僕は刺激を受け、考えさせられました。
それだけで一読の価値があるのではないか、と。