鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

プリンセスの再定義と儒教的価値観の混沌:映画「ムーラン」

最近のディズニーは、「男性の愛を掴むプリンセス」というプリンセス観を再定義して、「1人の人間としてのプリンセス」を描こうと、意識的ですが、この「ムーラン」もその流れの一つ。

最もそれが先鋭的に描かれていると言ったもいいかもしれません。

その点に強く惹かれるものを感じます。

(本作で個人的にもっとも惹かれたのは、その点を突くオリジナルキャラクターである「魔女(シャンニン)」でした)

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一方で、「忠勇真」そして「孝」というキーワードに象徴される儒教的な世界観や、「皇帝」を中心とした中華的権威主義が思いの外、強く打ち出されている面もあって、そのことが「プリンセスの再定義」を進める先進性とミスマッチを起こしてる感じもありました。

そりゃまあ、皇帝は「ジェット・リー」ですからね。

つえぇのは当たり前なんですがw。

 

 


ヒロインの香港デモに対する発言や、新疆ウイグル地区での撮影に関するゴタゴタでボイコット騒動に巻き込まれている本作ですが、出来そのものは良いと僕は思います。

一緒に見てた子供達(特に娘)もかなり惹き込まれて楽しんでましたし、「ムーラン」そして彼女の<影>である「魔女」に感情移入していました。

一方で、「中国の存在感」ということを考えると、中華的世界観や儒教的哲学観というものを、どういう風に捉えていくのかっていうのは、存外大きいのかもしれません。

 


…ま、エンタメにどこまで求めるの、ってのもありますがw。

 

 

 

<以下、若干のネタバレを含みます。観る予定がある方は読まないでください>

 

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自らを偽り、父の代わりに軍隊に入って闘うムーランの欺瞞を突く存在として「魔女」が登場します。

実写版でのオリジナルキャラクターですが、「力」があるが故に、社会から排斥され、追いやられた過去を持つ彼女は、「ムーラン」の<影>であり、可能性としての<未来の姿>でもあります。

 


軍隊の中で「仲間」を作り、信頼関係を築いたムーランは、自分の「居場所」を見出すことができたことを魔女に見せ、彼女に改心を迫ります。

魔女はムーランを受け入れ、彼女の盾になって死ぬわけですが、「力のある女性が、自分をさらけ出しながらも社会に受け入れられるのか」という最大のテーマが、この2人の女性の「あり方」によって描かれるのが本作な訳です。

 


でもねぇ。

僕個人としては「魔女(シャンニン)」にも<新しい未来>を見せて欲しかったんですよ。

例えば、排斥された<恨み>を忘れ、<自由な存在>として解き放たれ、世界を見るために旅立っていく…とかね。

<中華的な社会観>の中にとどまるムーランと対比することで、より「自立した存在としての女性」というテーマを強調できたのではないか、と。

(「コン・リー」が好きってのもあるけどw)

 


…ま、そしたら「ムーラン」じゃなくなっちゃうかw。