透析中止に関する報道。
<医師が「死」の選択肢提示 透析中止、患者死亡 東京の公立病院>
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190307-00000004-mai-soci
医療的な対応という点ではこちらのコメントがほぼカバーしてくれてると思います。(さすがです、永井さん)
<問題は「透析中止」にあらず、マスコミ報道に違和感
核心は「十分な選択肢の提示と納得のいく対話」の有無>
https://www.facebook.com/100002043663158/posts/2123740614370707?sfns=mo
僕が特に気になってるのは「ジャーナリズムのあり方」です。
<何か具体的な一事例を取り上げて、その報道から「課題提起」をする>
このこと自体を否定するつもりはありません。
個人や家族が経験したことを記事にすることで、具体的で分かりやすくなるというのはありますし、エモーショナルな部分を刺激することで「課題提起」を強く打ち出すという点は確かにあると思いますから。
ただ「一個人」や「一家族」が経験したことが、「社会全体」にも同じようなインパクトを持つとは限りません。
「部分最適≠全体最適」
時にはその問題提起そのものが、社会や制度全体の安定性やメリットを揺るがすことさえあり得るでしょう。
特に「医療」に関しては、(そもそも極めてセンシティブな事案だけに)そういうリスクを内在している可能性が少なからずあると思っています。
もちろん本件がどういう方向に向かっていくかは、現時点では、見えません。
・当該病院の患者対応の体制の問題
・協会の指針との兼ね合い
・医師の個人的判断と制度の兼ね合い
・医師の無誤謬性
・医療保険制度の安定性
・安楽死問題
etc,etc
本件が投げ掛け得る<問い>の範疇はかなり広いと思いますし、それらのことがうかがえる報道のされ方、リアクションが既に出て来てもいるでしょう。
しかしながら「だからこそ」こういう案件については報道する際、単なる「<事実>の報道」ではなく、その報道において「何を訴えようとしているのか」、「社会に対してどういうインパクトをもたらすのか」等々、報道の課題提起の「意図」を明らかにする必要があると僕は考えています。
「我々は<事実>を報道するだけ。それをどう考えるかは、社会の受け取り方次第」
そう思っているのなら、あまりにも無責任だし、だいたいそういう「記事の書き方」になっていないでしょう。
メディアやジャーナリズムの問題ってのは、ドンドン大きくなってると感じていますが、まずはこういう<大局観>なき「投げっ放し報道」こそが、自らの信頼を失うとともに、安易なポピュリズムを生む出す温床にするなってのではないか、と。
なかなか難しい話なのは分かりますよ。
「対案なき反対は無責任」
と言う考え方は、「個人」においてはやはり<言論封殺>的な意味合いを持ってくるリスクが高いと思います。
しかしながら一定の「権力の行使」すら可能である<マスメディア>においては、この批判は成り立ち得るんじゃないですかね。
本件の今後の報道を見守りたいし、メディアの深掘りした記事を期待したいと思います。