・ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか
著者:酒井隆史
出版:講談社現代新書(Kindle版)
人類学者デヴィッド・グレーバーの「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」は結構気になる本で、コロナ禍での「エッセンシャルワーカー」論でその重要性について語られることが多くなっています。
でまあ、僕も購入はしたのですが…
なんせこの分厚さw。
完全に「積読本」候補になっちゃってます。
「読みたいんだけど…」
って気持ちだけはあるんですけど…。
本書はグレーバーのこの著作の翻訳者の一人による「入門書」。
「おお、ありがたい」
と早速購入して読んでみました。
…が、これってそんな簡単に読めるもんじゃないですねw。
かなりチャンとしたグレーバーの著作の「解説」になっていて、キッチリと理解するにはそれなりに腰を据えて読まなきゃいけないようです。
通勤時間の片手間に読み飛ばすような本じゃない感じ…。
でもなぁ、そこまでシッカリ勉強するなら、グレーバーの本を読んだ方がいいしなぁ。
とか思いながら、なんとか一通りは読みました。
だからまあ、僕の理解はかなり「独りよがり」です。
この知識をベースに「ブルシット・ジョブ」を振り回すのは、慎重になった方がいいな…くらいの認識はありますw。
・ブルシット・ジョブとは
まずはこの定義ですかね。
<BSJとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、被雇用者は、そうではないととりつくろわねばならないと感じている。>
メインとなるのは官僚的組織における「管理職」…でしょうか。
コロナ禍で浮き彫りになったのは、「本当に社会に必要な仕事とは言えない仕事に従事している職業」ということで、特に金融業界に焦点が当たっているでしょうか。
ただどれに止まらず、「効率化」の観点から「分業」された仕事なんかも視野に入ってる(らしい)ところがアナーキーであるグレーバーの特徴となるでしょうか。
いずれにせよ、「被雇用者自身が不必要性を認識している」(だからこそ精神的に追い込まれる)ところがポイントです。
・ブルシット・ジョブが生まれてきた経緯
ここはなかなか難しくて、読んでても自分で整理できていません。
ただ大きな流れとしては、
①第二次対戦後の経済成長
がある中で、世界経済が伸長、(少なくとも先進国では)「豊かな社会」が築き上げられてきた中、
②冷戦終結による社会主義勢力の後退
によって、権力者・資本家サイドがカウンターとしての勢力(社会主義的政策を支持する労働者等の勢力)に配慮する必要がなくなり、
③バックラッシュとしての新自由主義/ネオリベによる社会全体の「市場化」
が強引に進められる中で、「市場化」された<数値管理>等の「ブルシット・ジョブ」が蔓延ってきた
…みたいな感じになるんでしょうか。
「100年後には「経済問題」は解決されている」
このケインズのビジョンは実現されるものであったにもかかわらず、その「過程」として想定した「雇用目的仕事」(比喩として「穴掘り」)の概念を、ネオリベが突いてきた…みたいな感じでしょうか?
ただグレーバーはそれを「ネオリベの陰謀」みたいには捉えておらず、「対処療法的に進めてきたことが、こういう事態にたどり着いている」って感じで考えていたようです。
・どうすりゃいいの?
グレーバーの提言は「ユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)」のようです。(所得制限のないBI)
<グレーバーにとって、 UBIは、 BSJ現象の解消への道筋を、官僚制ひいては国家から解放される道筋とともに想像することを可能にしてくれます。アナキストであるグレーバーにとって、国家の統制による解決は望ましいものではありません。「国家を徐々に小さくしていきながら、同時に状況を改善し、人々をしてより自由なかたちでシステムに挑戦するように仕向ける」。かれはそのような可能性を UBIにみています。>
ここら辺、中野剛志さんが論じてた「変異する資本主義」とは違う方向性ですね。
あれは「社会主義的な財政政策」を意図していましたから。
今、米国や日本(「新しい資本主義」w)が目指しているのもコッチぽいから、グレーバーの求めている方向性とは違う流れになっているともいえるのでしょうか。
「エッセンシャルワーカー」や「経済・社会活動におけるケアの見直し」というところでは重なるところもあるんでしょうが…。
BSJとエッセンシャルワーカーの倒錯した関係に関する論考なんかもかなり興味深いです。(なぜ「社会的価値」のある仕事を担うエッセンシャル・ワーカーの方がBSJよりも賃金が安いのか?)
その結果、行き着いた先の労働観。
<おまえがどんなに生活が厳しかろうが首をくくる寸前であろうが、内臓を売ることになろうが、借金は借金だろ、返済にこんなに苦労するほど借金しないと学歴がとれない社会ってなんだ、とか、なに世界を問い返してるんだよ!? 借りたもんは返すもんだ、これが人間の筋ってもんだろ、と、だいたいこういう感じです。>
<仕事がむなしいだって? おまえふざけるなよ。この給料泥棒。仕事があるだけでもましだとおもえ。ましてや仕事の意味なんて、おまえ、イカれてんじゃないか? 世間はそれじゃ通らないよ。仕事をしてこそ一人前なんだから、と、こういうわけです。>
<苦痛をへなくても生きていける、人間として成長できる、苦痛まみれの仕事でない仕事で生きていける世界がありうる、といった想像力のないところでは、こうしたサディズムまじりのモラルはますます強力になり、「健康のためには死んでもいい」的な倒錯が強固になります。>
文字にするとウンザリしますが、笑い飛ばすのはナカナカ難しいです。個人的には。
アナキストであるグレーバーの視点は、「分析的」であるだけではなく、「社会はこうあるべき」という運動論的なものも含まれているんじゃないか、って印象があります。
その社会像を共有できるかどうかで評価は変わってくると思いますが、「コロナ禍」はある意味、グレーバーの指摘を受け入れる土壌を社会に作ったと言えるのかもしれません。
ただその向こうに
<UBIに支えられたアナキズム的社会>を見るのか、
<社会主義的財政政策を導入することによる資本主義の修正>で良しとするのか
…ってのはあるでしょう。
僕としては…う〜ん、後者かなぁ。
それで「ブルシット・ジョブ」がどこまでなくなるのか、「エッセンシャルワーカー」の地位向上がどこまでできるのか…ってのは、確かに懸念も少なからずありますが…。
#読書感想文
#ブルシットジョブの謎
#ブルシットジョブ
#デヴィット_グレーバー
#酒井隆史