・決定版 大東亜戦争<上・下>
著者:戸部良一、赤木莞爾、庄司潤一郎、川島真、波多野澄雄、兼原信克
出版:新潮社新書
毎年8月は戦争関連の本を読むことにしています。
今年チョイスしたのがこの新書。
15日よりも前に読み始めたんですが、思ってたよりも時間がかかりましたw。
内容的に、「物語的な流れ」みたいなものがあるんじゃなくて、4つの大きな括りを踏まえて、14のテーマを、資料解説っぽく取り上げる形式になってて、「一気読み」ってのがしづらかったんですよ。
テーマによっては、
「ここは突っ込まれても…」
ってのもなきにしもあらず…でしたし。
目次はこんな感じ
Ⅰ 開戦と戦略
第1章 日本の戦争指導計画と作戦展開
第2章 英米ソ「大同盟」における対日戦略
第3章 中国から見た開戦とその展開
Ⅱ 共栄圏の政治と経済
第4章 大東亜会議と「アジアの解放」
第5章 大東亜戦争期の日中和平工作
第6章 財政・金融規律の崩壊と国民生活
Ⅲ 戦争指導と終戦過程
第7章 日本の戦争指導体制
第8章 アメリカの戦争指導体制と政軍関係
第9章 戦争終結の道程
第10章 中国から見た「戦勝」
第11章 サンフランシスコ講和体制の形成と賠償問題
第12章 平成における天皇皇后両陛下と「慰霊の旅」
第13章 戦争呼称に関する問題
第14章 帝国日本の政軍関係とその教訓
大戦期の日本の財政の出鱈目ぶり(第6章)とか、上皇・上皇后陛下の「慰霊の旅」にみる「天皇家の先の大戦の捉え方」(第12章)とか、興味深いところはたくさんあるんですが、今の「コロナ禍」で読むと、日本のコロナ対策における政権・官僚の統治の不全っぷりが否応なく想起されます。
第7章、第8章、第14章あたりですかね、集中的には。
ポイントとしては「国家としての戦略を立案し、それに基づいて外交を展開し、その結果としての戦争において戦略的目的を堅持しつつ、戦争を遂行する」という国家としての<中核的組織>があったかどうか?
まあ、雑に言えば、国家の全権を担い、<外交>と<戦争>を司る存在としての「チャーチル」や「ローズベルト」は日本にいましたか?
って話かな。
「個人」としてではなく、「組織的役割」としてね。(その統合を「軍」ではなく「政治」(政治家)が担うところがポイントだし、シビリアンコントロールの意味を考えさせられもします)
元・外交官である兼原さんは、本書ではやや浮くくらいの感情的な言葉で、鈴木貫太郎の考えを記します。(第14章)
<鈴木は、戦後、暗殺を避けるために転々としながら受けたインタビュー記事「終戦の表情」の中で、自分はどうせ一度死んだのだから、命を擲って戦争を終わらせると決意したと言っている。鈴木はまた、国が亡べば終わりだ、何としても日本は生き延びなければと思ったとも言っている。この民族生存への執念こそが、最高指導者の最も重要な資質である。鈴木は、「瓦となって残るよりは珠と散りたい」と息巻く人たちを、心底、軽蔑していた。>
「民族生存への執念」
これを最高指導者が持つこと、その執念の実現のために国家機能を使い切ること。
だからこそ「民主主義国家」でありながら、有事における「独裁的体制」が英米では機能しうる…ということなんだろうと思います。
今の「コロナ禍」においても、(特にイギリスは)こういう気配を見せてるんじゃないか、と個人的には思ってるんですけどね。
(日露戦争を戦った、いわば「明治の生き残り」である鈴木貫太郎はそれを体現し得たし、「天皇家」にはそのことが身にしみてわかってたんじゃないか…とも。
だからこその「慰霊の旅」なんじゃないかなぁ…)
今回のコロナ対策で僕は、
「今の自民党政権って、ここまで民主的やったんや」
とヤヤ驚いています。
政権や官僚たちの右往左往は、その現れだろうとも。
だって人々が求めている「整然とした、成果のあるコロナ対策」をやろうと思ったら、その実行はかなり有事体制における専制的な政策になる可能性が低くないですよ。
私権の制限に踏み込むわけですから。
そういう意味では、色々文句はありますが(オリパラとか、GoToのタイミングとか、休業補償とか)、結構、菅政権は頑張ってはいると個人的には思ってるんですけどね。(「ワクチンがキーだ」と見定めてのアクションとか)
ただこうなって、「もう一歩」が必要というのも確かかも。
でもそれがどういうものなのか。
国民的合意はあり得るんですかね?
まあ、そういう意味では「今」を考える上でもナカナカ興味深い作品でした。
「イデオロギーから解放して<大東亜戦争>という言葉を」
って点については、
「いやぁ、そりゃ無理でしょ」
と思ってますけどw。
#読書感想文
#決定版大東亜戦争