鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

みんな、こんな風に考えているのじゃないのか:読書力「哲学しててもいいですか?」

・哲学しててもいいですか?  文系学部不要論へのささやかな反論

著者:三谷尚澄

出版:ナカニシヤ出版

哲学しててもいいですか?: 文系学部不要論へのささやかな反論

哲学しててもいいですか?: 文系学部不要論へのささやかな反論

 

 

読み終えて、基本的にはその通りだなぁ、と。

いや、むしろみんなこんな風には考えてないのかな?

なんか、そっちの方が気になりました。

 

前半は大学の教職員の現状と学生たちの現状に関する説明。(しかし大変ですね。学生たちに対する違和感のようなものは、僕も若い社員と話してて感じる時はあります)

で、後半がそれを踏まえた上で、「哲学」が今後の社会においても必要とされるべき理由を論じられています。

 

後半で作者が「哲学」を学ぶことで得ることが出来るモノとして上げているのは、①「論理的に思索する」能力と、②「箱の外に出て思考する」能力。

まぁ、論理性っていうのはビジネスマンにとっても重要な能力なので、こちらのほうは実利的な面もあるとして、作者は②の「箱の外に出て思考する」という能力こそが「哲学」が今後の社会において重要な意味を持ってくると主張しています。

 

「箱の中の論理」のみを身に付け、身内の論理に長けるだけで、箱そのものがあり方を変えるようなチャレンジを行わないような人間だけで構成された社会ではなく、「箱の外に出て思考する」ことで、「箱の中の論理」に異議申し立てをし、「箱のあり方」そのものを変えていく。

そう言う<「哲学の器量を備えた市民の育成」を目的とする教育がこの国の大学から姿を消すことがあってはならないのである。>

 

その通りだと思うんですけどね。

むしろ今のビジネスの世界はそうした人間こそ求めていると言ってもいいと思います。AI等の進展によって一定のルールに沿った作業や判断は人間が関与せずとも合理的かつ効率的に実施できるようになる社会が来ようとしています。

年末にメガバンク何かで打ち上げられた一連のリストラの話なんかはそういう流れに位置づけることができるでしょう。

そーゆー未来の社会において重視されるのは「人間が人間にしかできないことをする」。

すなわち創造性と自律性を兼ね備えた柔軟な働き方・考え方ができる人間です。

これって要すれば、論理性があって箱の外から思考できる人間のことじゃないですかね。

すなわち「哲学」が極めて重要な時代になってくると言うのがこれからの時代だと思います。

 

…というのは、広く共有されている考え方だと思ってたんですけど、どうもそういうわけじゃないようですね。

確かに本書で紹介されている文科省の通達の内容なんかはとてもそんな感じじゃないですし、昨日の安倍首相の施政方針演説にも「なんだかなぁ」てところがありました。

 

<大学のあり方も、また、変わらなければなりません。社会のニーズにしっかりと答えられる人材を育成できるよう、学問追求のみならず人づくりにも意欲を燃やす大学に限って、無償化の対象といたします>

 

そのニーズがはっきりとわからない時代になってきたって言うのが「現代」だと思うんだけどなぁ…。(「金」で釣ってるし)

 

本書の中では、Lモード大学とGモード大学の話はかなり辛辣に書かれていますが、LやらGやらって言うのは経済圏・ビジネス圏の話で、どっちも「スキル」の話でしょう。

グローバル社会に通用するスキルを教えるか、ローカル文化・ビジネスを支える人材に必要なスキルを教えるか。

いずれにおいても、今後の社会変化が不透明であることには変わりなく、AIを中心とした機械化の進展も同様。

つまり、どっちにも「哲学」は重要なんですよね。GにはいるけどLにはいらないとか、そういう話ではないんだけどなぁ。

 

と言うよりも、理系とか文系とか分けている事自体があまり意味がないような気がします。そこに妙な障壁があることの方が問題なんじゃないかなぁ。

本社の中にはアメリカの哲学科を卒業した人材のキャリアの変遷が描かれたりしていますが、そういうところにも理由があるんじゃないかなぁなどと思ったりします。

 

あと大学のビジネスと言う点は、「哲学」の重要性とは切り離して論議した方が良いようには思います。

本書の前半では現在の研究状況の苦境が描かれていますが、そーゆー状況に対する一定の理解も作者にはあるようです。

ここら辺は組織運営論もなるし、人口減少が進む中での社会全体のコストの配分の問題や、大学・学生・教師の数の適正性ってとこもあります。

学問の重要性を認識をつつ、それを支える組織をどのように成立させるかという事は、別の視点から論じていく必要があるのではないか、と。

 

その役割が文科省にあるんですが、そのことに対する絶望があるっていうのは、これはこれでなんとなく察することもできるんですけどねw。

だからこそ作者は研究や教育と言う場から一歩踏み出して、こーゆー作品を書いたんでしょう。

そのある種の責任感と言う点でも本書には一読の価値があったと個人的には思っています。

 

まぁ、西部さんの作品よりは随分と読みやすかったですしw。