鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

「透析中止報道」や「大学改革」のことなんかも考えながら読んでました:読書録「科学と非科学」

・科学と非科学  その正体を探る

著者:中屋敷均

出版:講談社現代新書(Kindle版)

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「その正体を探る」と言う副題だと、何かの「論考」みたいですが、基本的には「エッセイ」です。

「科学」を題材にして、<世界>のあり方を明らかにしていく「科学」のあり様と、明らかにしきれない、あるいは明らかにしたと言う思い込みの狭間に生じる<闇>のような領域(「非科学」)の関係について、様々な歴史的エピソードや自分自身の経験を引き合いに出しながら論じています。

読みやすいし、面白い作品だと思いますよ。

「検証可能性」こそが「科学」の要諦だと僕は思っていますが、「非科学」との距離感や容認の態度も含めて、僕自身は結構近い感覚を持ってるかな~、と。


(そこら辺は3.11後の「原発」への評価や、ワクチンや農薬をめぐる「確率と統計」の話あたりに出て来るかな。

「どっちが正しい」

じゃなくて、自分自身の<スタンス>(哲学)の持ち方として)


最近よく思うのは、

「僕らは所詮<時代>の枠組みからは逃れられない」

と言うこと。

もしかしたら<未来>においては「科学」はすべての<闇>を明らかにし、「非科学」は姿を消す世界が来るのかもしれませんが、僕自身がそれを見ることはない。

作者はそう言う世界で本当に幸せに生きれるのかを問うてもいますが、僕としては、

「そんなの知らんがな」w。

だってそれを見ることも、経験もすることは出来ないから。


僕に出来るのは<今>において「科学」と「非科学」が提示する選択肢を見ながら、自分自身の生き方や哲学に沿ってその距離感を都度都度選択していくだけ。

マジでそれだけだと思っています。

出来る限り論理的に生きたいとは思っていますが、それ自体が僕の「選択」でしかないし、その「論理」が「真理」でないことは、「科学」が「検証可能性」に支えられているとの同義でしょうからね。

だからまあ、その「留保」を認識しながら、<今>を選択していくだけと言う、当たり前っちゃあ当たり前の結論。


「検証可能性」と言う観点からは本書では「権威」の話が語られていますが、今色々起きていることを考えさせられもしましたね。

色んな「協会」を巡るアレやコレやなんか、まさにココらへんの話だし、ここ数日考えさせられることの多い「透析中止報道」についても、「病院」「医師」「学会」「自治体」「メディア」等の<権威>のせめぎ合いとも見えます。

そして「権威」を持ち出すとき、その裏には「思考停止」があるという…

なんか、「そうなんだよな~」って感じです。


本書では作者は「大学改革」の弊害についても(作品としてはちょっとバランスを失しているくらい)熱く語っていますが、その論旨には賛同しつつも、ちょっとした違和感も感じたりもします。

作者自身は教育行政の不手際を厳しく断罪する一方で、大学人のあり方にも批判を加えていますから意識はしてると思うのですが、もっとも被害を受け、見通しもできている「大学人」自身が、「じゃあ、どうするか」を他人に丸投げしてる様な印象がどうしてもあるんですよ。

大学という<権威>にしがみついている様に。

これだけ問題点・課題点が指摘されながらも、それを解決していく方向に事態が動いていかないのは、そこらへんなんじゃないかなぁ~、と。

最中にいるみなさんが苦労してるのはよく分かるんですがね。


(この点に関しては、結局、「パトロンをどうするか」だと思っています。

これだけ情報が開示される様になった民主主義において、政府や行政が「パトロン」となることを期待することは難しいし、規模的にも足りないと僕は思います。

そういう意味で「民間」にパトロンを大学は求めるべきだし、その財力と自由度を民間に持たせるために民間における「新自由主義的」な経済環境を推進していく必要がある。

…多分、今の大学関係者の方は全く別の方向性を主張されると思いますがw。(一方で大学自身が新自由主義的な指針で運営される必要はないとも思います)

でも、マジで政府からの予算に期待するのは、ちょっと無理筋と思いますがね)


まあ、「エッセイ」ですから。

気楽に読んで、それぞれが思うところを思えば良いのではないでしょうか?