鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

「読書」よりも「働き方」のほうに主張がある本でした:読書録「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」

・なぜ働いていると本が読めなくなるのか
著者:三宅香帆
出版:集英社新書(Kindle版)

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もともとは「ようこそ、ヒュナム洞書店へ」を読んで、その流れで気になって購入した作品です。
あの本は新自由主義的な働き方から疎外されたり、燃え尽き症候群になっちゃった人たちが、「本を読む」ことを核として、新しい働き方を模索する内容でしたからね。
まぁ、アマゾンのアルゴリズムにまんまとはまっちゃったっていうことかもしれませんけどw。


本書では明治以降の日本の「読書」のあり方と「労働」と言う視点から見た社会のあり方の関係が解説されています。
作者自身が最後に内容をまとめてくれています。


<序章では、映画『花束みたいな恋をした』を参照し、なぜ働いていると本が読めなくなるという声が上がるようになったのか?という問題提起をおこなった。  
明治 ~大正時代を扱った第一、二章においては、日本の近代化の過程で、国家が青年たちに立身出世を追求させたことを確認した。この流れのなかで修養という名の自己啓発を煽る書籍や雑誌が流行する。さらに修養のひとつの系譜として、青年たちの間に、立身出世の手段としての教養を重視する傾向が生まれた。  
第三、四章で綴った戦前 ~戦後の日本では、サラリーマンという新中産階級が誕生した。彼らに読まれることで書籍もまた一部のエリートのものではなく大衆の娯楽となった。ここで円本や全集などの教養を大衆に啓蒙する書籍が多数売れることになる。  
第五、六章で見た高度経済成長期を終えた日本において、もはやサラリーマンにとって読書は立身出世のために読むものというより、テレビと連動して売れる娯楽のひとつとなっていた。当時、テレビ売れという大衆向け書籍のベストセラーによって出版界はかつてない売り上げを誇った。しかし日本人の書籍の購入ピークはこのときだった。  
第七 ~九章においては、バブル崩壊後の日本で労働環境が変化し、情報社会が到来するなかで、自己啓発書が売れるようになった背景を指摘した。人々の働き方が変化するなかで、自己啓発書が象徴するように、自分の意図していない知識を頭に入れる余裕のない人が増えていった。
整理すると、明治 ~戦後の社会では立身出世という成功に必要なのは、教養や勉強といった社会に関する知識とされていた。しかし現代において成功に必要なのは、その場で自分に必要な情報を得て、不必要な情報はノイズとして除外し、自分の行動を変革することである。そのため自分にとって不必要な情報も入ってくる読書は、働いていると遠ざけられることになった。>


明治以降、「教養」「修養」「自己研鑽」といった視点で、自分自身の「内面」を豊かにしていくと言う観点に「読書」が位置づけられていたのが、90年代ごろから新自由主義的な考え方が入ってきて「行動」「成果」といった「外面」に重点が置かれるようになり、自己啓発本が幅を聞かせるようになってきた中で、IT革命により手っ取り早く「情報」を入手することができるようになったことで「読書」の相対的な重要性が減少してしまった。
…みたいな話ですかね。
「ようこそ、ヒュナム洞書店へ」との関連から言うとこの新自由主義的働き方というのがポイントになります。
ここら辺はこういう指摘がされています。


<21世紀、実は私たちの敵は、自分の内側にいるという。  
新自由主義は決して外部から人間を強制しようとしない。むしろ競争心を煽ることで、あくまで「自分から」戦いに参加させようとする。なぜなら新自由主義は自己責任と自己決定を重視するからだ。だからこそ現代において――私たちが戦う理由は、自分が望むから、なのだ。  
戦いを望み続けた自己はどうなるのだろう?  
疲れるのだ。  
その結果として人は、鬱病や、燃え尽き症候群といった、精神疾患に至る。  
ハンが名づけた「疲労社会」とは、鬱病になりやすい社会のことを指す。それは決して、外部から支配された結果、疲れるのではない。むしろ自分から「もっとできる」「もっと頑張れる」と思い続けて、自発的に頑張りすぎて、疲れてしまうのだ。>


なかなか面白いなぁと読ませてもらいました。
確かに90年代以降、「読書」の重要性は相対的に下がっているのかもしれませんが、それまでだって「本を読む」と言うのは、ある種の功利主義的な考え方に支えられていたというのが歴史的に見えてきます
ビジネスとしての「書店業」が厳しくなってきてるっていうのは、こういう背景があるとも言えるんじゃないですかね
多くの人たちが本を買う理由の1つが、そういう功利主義的な側面にあったのが、SNSやネットニュースから「情報」を入手することに代替されている訳ですから。


もちろん作者はそういう功利主義的な読書や文化受容のあり方だけをよしとしているわけではなく、それ以外の形での「読書」についても大切にしています。
本書の最終章では「半身」と言うキーワードで新しい働き方が提言されていますが、その理由はそういう「読書」のあり方を大切にしていきたいと考えているからだと思います。
ただまぁそれがどれくらいのビジネス的なボリュームとなり得るのかどうかっていうのは本書では論じられていません。
功利主義的ではない読書っていうのはどういうものかって言うことだって定義されてるわけでもないですからね
そこら辺がモヤモヤすると言えばモヤモヤする。
でもまぁ「働き方」に対する問題提起が、本書の真の目的であると考えるならば、ある意味論じられている「読書」っていうのは、マクガフィンとも言えます。(実際、「読書」以外の「文化受容」にも通じる話…として論は展開します)
厳しく定義して隘路にハマっちゃうよりは、これはこれで「あり」なのかも。


「半身」と言う新しい働き方を提議しながらも、それで社会を変えていこうと声高な主張をするわけでもありません。
あなたもそういう働き方に賛同しませんか?
そういうスタンスは僕は好ましいと思います。
上から目線で言われちゃったら、なんだか反発しちゃいたくなるじゃないですかw。


日本社会においても「働き方改革」が主張されるようになり、ハラスメントや搾取の問題も議論されるようになってきました。
そういう中でこういう視点が提議されることには意味があるんじゃないでしょうか。
世代も変わってくる中で、そういう選択がされることもあるんじゃないかと思います。
まあ、それは次の世代にお任せ…と言うことになりますがw。

 

僕自身は働いている間も、比較的読書の時間は一定程度はキープできてきた方かなぁと思います。
だからこそ大したサラリーマンになれなかったっていうのもあるかなw(本のせいにしちゃいけません)。
それでも本書を読みながら、結構時代の影響も受けてきたなぁと言う風には思います。
自己啓発本も読んではいましたからね。
でもまぁ、それはそれで悪くはなかったと思っていますよ。
新自由主義的な考え方も、確かに行き過ぎると問題はいろいろあるし、現状はその悪影響を修正するタイミングにあるとは思いますが、そういう考え方が出てきたのには、それはそれなりの背景がある…というのが僕のスタンスです。


個人的には60も間近になってきましたし功利主義的な読書からは、少し距離をおきたいなとは思ってますけどね。
そんなこと言いながらchatGPTの本なんか読んだりもしてるわけですがw。