鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

「階級闘争」…う〜ん、そこまで来てるんだろうか?でも、まあ…:読書録「新しい階級闘争」

・新しい階級闘争 大都市エリートから民主主義を守る

著者:マイケル・リンド 監訳:施光恒 訳:寺下滝郎 

解説:中野剛志

出版:東洋経済新報社(Kindle版)

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西側諸国で大きな問題となっている「分断」の問題は、「政党」や「左右イデオロギー」の対立というより、「上下」の対立によるところが大きいのではないか。

…いろいろな本や記事を読んでて、僕はそういう風に考えるようになっています。

それを「階級闘争」と言っていいのかどうかには個人的に躊躇があるのですが、作者は「エリート/大衆」という<階級>の対立の枠組でその点を論じています。

ま、日本と欧米の状況の差ってのもありますかね。(日本の場合、第二次大戦での<断絶>もありますし)

 


<西ヨーロッパと北米で起こっているほぼすべての政治的混乱は、「新しい階級闘争」によって説明がつく。欧米諸国における最初の階級闘争は、第二次世界大戦後、大西洋の両側で民主的多元主義システムが確立されたことで終結した。労働組合、大衆参加型政党、宗教団体や市民団体は、「われわれにも権力をよこせ」「われわれの価値観を尊重せよ」と叫んで高学歴の管理者(経営者)エリートに強く迫った。その後、 1 9 7 0年代から現在にいたるまで、各国の労働者階級と管理者(経営者)エリートのあいだで不安定ながらも「民主的多元主義講和条約」が結ばれていたが、その条件を一方的に破棄したのはエリートの側であった。欧米民主主義諸国では、労働者階級の圧力から解き放たれた大都市の上流階級が専横をきわめ、もはや耐えられなくなったポピュリストたちが下からの反乱を引き起こしたのだ。この反乱は、ドナルド・トランプやボリス・ジョンソンのようなエリート出身の日和見主義者を中心としたデマゴーグに利用され、しばしば悲惨な結果を招くにいたった。>

 


第二次世界大戦後<民主的多元主義システム>が成立したことで一旦集結した<階級闘争>が、70年台からの「新自由主義」を掲げた管理者(経営者)エリートの巻き返しによって大きくエリートサイドの方に秤が傾き、そのことに耐えきれなくなった層が<ポピュリスト>として反乱を起こしている

…というのが大きな見立て。

ただしこの<ポピュリストの反乱>は解決策をもたらすわけではなく、対処療法でしかないため、デマゴーグに利用され、悲惨な結果に陥っている。

 

 

 

ここら辺の歴史の流れや分析、解説が本書の読みどころでしょう。

なかなか読み応えがありますし、実際に最近起きていることを考えると、

「なるほどな〜」

ってところがあります。

<リベラル>が「エリート」の道具になっていると断ずるあたりも、「弱者保護」「弱者の代弁」の側面もあるのは確かなものの、その一面性や正義を掲げた硬直性には首を捻らざるを得ないところありますからね。(そこから陰謀論的なところに踏み込むかどうかは、状況を詳細に知ってるわけではないので、個人的には留保ですが)

 


「ポピュリストの反乱」ではない、対処療法じゃない解決策として作者が提示するのが「民主的多言主義」。

 


<テクノクラート新自由主義と煽動的ポピュリズムの両者に代わるのは、民主的多元主義である。民主的多元主義は、民主的な選挙は民主主義の必要条件ではあっても十分条件ではないという本質を見抜いている。高学歴の富裕層は、人事を介してではあるが、必然的にすべての関係者を支配する傾向があるため、「地域」代表は、職能団体や地域団体からなる「社会連邦主義( social federalism)」( 1 0 0年前のイギリスの多元主義者が使っていた言葉)によって(代替ではなく)補完されなければならない。そのためには、政策の実質的部分をルール策定機関に任せる必要がある。たとえば、賃金を決定する部門別機関は労働組合と企業が担い、教育やメディアを監督する機関は宗教と世俗的信条の代表者が担うといったかたちで、社会の特定部分の代表者にルールの策定を委ねるのである。領域的国家は、強制力を持つ唯一の存在として、すべての機関を監督し、個人の権利やその他の国益を守るために必要ならば介入も辞さない。しかし、政府はさまざまな分野で「君臨すれども統治せず(reigns but does not rule)」というのが民主的多元主義者の抱く民主主義観である。>

 


社会の各層の代弁者としての「中間団体」を復活させ、その<声>を反映させることで「エリート」からの上からの抑圧に対抗し、<階級闘争>を講和させる…って感じでしょうか?

「中間団体による代弁」というと、なんか<ボスの復活>みたいな雰囲気にもなっちゃいますが、その腐敗は監視しながらも、そういう<声の代弁者>は必要なのだ…という認識でしょうか?

70年代以降の「上からの改革」が、こうした<声の代弁者>の追い落とし(その手段といてメディアが使われたりもした)を進めた…というと、チョット「陰謀論」めくかなぁ。

その「腐敗」や「既得権益化」には、それはそれで問題があったとは思うんですが…。

 


作者は70年代以降のエリートによる「上からの改革」について、徹底された欧米に比して、日本や韓国等の東アジアはそこまで徹底されず、その原因は「中間団体」が力を一定程度保持したからだと分析します。

そのこと自体が「日本の後進性」と考えられていたし、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」からの凋落の原因とも解説されてきましたが、

「そうとも言い切れないんじゃないの?」

という視点を本書は与えてくれます。

少なくとも、欧米諸国に比して、日本における「分断」は、まだそこまで破滅的なところには行ってない…ってのがその証拠になるのかもしれません。(そうかもしれないけど、それでも…ってところはあるにせよ)

 


しかし一方で、デマゴーグに陥らないで、「中間団体」の復活ってできますかね?

ここのところが「どうなんだろう」と感じたりします。

その一方で「賃上げ」を巡る動きなんかには、その可能性を感じさせるところがなきにしも…。

「コロナ対策」における日本社会のあり方なんかも、その「可能性」を支えるひとつかもしれないかなぁ。

それはそれで「同調圧力」「既得権益確保」とも繋がっているので、簡単に整理できることでもないんですが…。

う〜ん…。

 


まあ、でも色んなことを考えさせられる視点を提示してくれる作品ではありました。

再配分主義や教育、反独占主義が対処療法にしかなり得ないとか…。

そんな感じは薄々してたんだけど。

ウクライナ侵攻で「グローバリズム」に曲がり角が来ている今、<国内>に目を向けるこういう考え方は時代にもマッチしているような気がします。

難しいけどなぁ。

 


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