・デジタルで変わる子どもたち 学習・言語能力の現在と未来
著者:バトラー後藤裕子
出版:ちくま新書(Kindle版)
「デジタル・テクノロジーと教育」をテーマとした新書。
…と言っても、「経験」をベースにしたエッセイ的なものではなくて、各種の論文・研究をベースにして、「どこまでが分かっていて、どこが分かっていないのか」について整理・論じる<硬め>の内容となっています。(あくまで「僕にとっては」ですがw)
<本書では、人間の持つさまざまな能力のなかで最も重要なものである言語という能力に特に焦点を当て、生まれた時からデジタル・テクノロジーに接してきた2000年前後以降に生まれた子どもたち・若者たちのテクノロジー使用と彼らの言語発達・言語能力との関係について考えてみようと思う。>(はじめに)
その観点から
・動画・テレビの乳幼児への影響(2歳以下にはネガティブ。それ以上は「使い様」)
・デジタルと紙との違い(「ある」が、ネガティブかどうかの判断は早計)
・SNSと読み書き能力(これも「ありそう」だが、ネガティブ判断とまで言い切れるか)
・デジタル・ゲームと学習(うまく使えば「ゲーム」は学習効果を向上させうる可能性も)
・AIと言語学習(使い様)
という論点で研究紹介がされています。(( )内は僕の勝手な「感想」ですw)
総じて読んでいて思ったのは、
「影響が<ない>とは言い切れないが、ポジティブ/ネガティブの判断は難しい。<使い方次第>というのが正直なところ」
って感想です。
もちろん教育現場の個々の場面においてはもっと丁寧な整理と対応が必要とは思いますがね。
<以下は、学校における言語教育の立場から主に話を進めるが、家庭内での保護者などによる言語教育にも大筋はあてはまるだろう。
まず、大切なのは、教師が適切なデジタル・リテラシーを身につけることである。デジタル・リテラシーとは、 ①自分の目的に合ったデジタル・コンテンツを見つけだし、使えること、 ②目的に応じて、自分でデジタル・コンテンツを作ることができること(たとえば、ブログを作ったり、動画を作成するなど)、そして ③デジタル機器やアプリを使って、コミュニケーションや情報交換ができることだといわれている。教師が常に新しいアプリケーション・ソフトに精通している必要はない。ただ、授業の目的に応じて、相応しいデジタル・コンテンツを自信を持って使えるだけの、最低限の知識とスキルは不可欠である。そして、児童・生徒の言語コミュニケーション能力を促進するために、言語習得の本質である身体性、社会性、感情・情緒の伝達をどのようにフォローしながら、デジタル機器を有効に使うべきかを模索する必要がある。>
この「デジタル・リテラシー」の話は、
「そうだよな」
と同感もします。
コロナ禍で、ビジネス現場でも相当にデジタル化が進んでいますが、その急速な展開についていける/いけないが、結構鮮明になってきています。
ここら辺は「年齢・性別」よりも「デジタル・リテラシー」の差によるところが大きいかと。
「とりあえずやってみて、うまく行かなきゃ、やり方変えてみるか」
「どういう機械やソフトを使うのか、それをどうやって使うのか、トラブルがあったときはどうするのか等々、ちゃんと教えてくれないと怖くて使えない」
…この差。
もちろん「どっちがいい」って話ではないんですが(どちらのスタンスにもメリデメあります)、現状は「前者」じゃないと「取り残される」ってのが露わになって来ている印象です。
(これもコロナ禍がおさまる中で揺り戻しがあるかもしれませんが)
本書の最終章(デジタル時代の言語能力)では、コロナ禍での世界各国での学習への影響、そこから「コロナ後」に向けた見通しが論じられていますが、日本に関しては「・・・」です。
そこからの巻き返しも今のところハッキリとは見えてこないしなぁ…。(もちろん、現場では色々やってくれてると期待してますけどね)
「デジタル」が日常を変えつつある現状は、自分自身でも感じますし、子どもたちを見ていると尚更に思います。
そこに「危機感」もあるのは確かですが、「社会環境」が変化するのに対応していることを否定することがどこまでいいことなのか、正直迷ってもいます。
だからまあ、結局自分でも世の中のデジタルの動きを追いかけようとは努力してるんですけどねぇ…。
でもなあ。
デジタル・テクノロジーって、「老眼」との相性があんまり良くないっていうか…。
「躓きの石」は、割とそこだったりしてw。
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