鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

(メモ)「2050年のメディア」:コンテンツとしての質の良い記事は必要とされている

本書の冒頭では渡邉恒雄氏の「嘆き」が紹介されています。


<「読売はこのままではもたんぞ」>(18年年初挨拶)


ただトランプ政権の誕生以降、「フェイクニュース」が世界的な政治の重要イシューとなり、むしろ「質の高いニュース」(ファクトに基づき、高い倫理性と哲学に裏づけされた記事)の重要性は高まっていると思います。

そういう記事を書くことができるのは、やはりマスメディアの記者が第一であると位置付けることができるんじゃないですかね。

 


もっとも「コンテンツ」としての「記事」が求められるとしても、それを読者に届ける「ツール」や「仕組み」として、紙媒体の「新聞」が必要かというと、それは相当に疑問。

そうなると「質の高いコンテンツとしての記事を書ける記者」を育成し、生活基盤を提供する「ツール」や「仕組み」として何があり得るのか、その経済規模は今の「新聞」を中心とした「マスメディア」と比べてどうなるのか…ってところが焦点になりますかね。

それが「同じ規模」か「大きくなる」なら、今のメディアに関係する人々をそのまま抱えることができるけど、「縮小する」のであれば、淘汰せざるをえない。

その規模がどうなるかは…

 


もはや問われるのはそういう段階に来ている…というのが渡邉氏の嘆きであり、本書が描いた先にある「未来図」なんじゃないかと僕は思います。

(そこからYahooは身を引いてるわけですが。電子版に舵を切った「日経」も安泰ではなく、そのパッケージ売りがどこまで生き残れるか…ってのはあると感じています)

 


NewsPickとか、そういうとこに踏み出そうとしてるんですがねぇ。

もう一段、ドラスティックな動きが必要かなぁ。

(崖っぷちの毎日・産経の解体。ここら辺がキッカケとなるのではないか、と予想)

 

ただその時、「渡邊恒雄」的な<中心>は必要とされないかもしれません。

そういう意味では、

「このままではもたない」

のは確かなのかもしれませんな。