冒頭、三つのエピソードが紹介されている。
初のトーキー作品「ジャズ・シンガー」でのアル・ジョンソンの黒塗り
若き日の評論家・津村喬が受けた中国旅行でのショック
神殿のない檜原神社の姿
この関係のなさそうなエピソードがどこで収斂するのかと思ったら、約360ページほど進んでから。
全体で460ページあまりの作品だから、ほぼ終盤ですなw。
そう言う意味では、「回答」よりも、「分析」「問題提起」に重点がおかれた作品と言えるかもしれない。
ただその言わんとする主張は結構「重い」んだけどね。
前半は現在のマスコミのあり方に焦点を当てて論が展開する。
自分自身の記者経験を踏まえ、現在のマスメディアと「権力」(官僚、政府、検察、警察 等々)との関係を、
「記者クラブ」「記者会見」に象徴される「表」の関係と、
「夜回り」に代表される、コンテキストに満ちた「裏」の関係
で解説している。
この構図は(自分自身の経験を踏まえているだけに)なかなか説得力があると思うよ。
だからって「記者クラブの問題は些細なことなんだ」って言うのとは違うと思うけど(作者もそんなことは言ってない)、「それだけで全てが解決する訳じゃない」ってのは良く判ったw。
そして作者の視点はそこに止まらず、マスコミも共有する「マイノリティ憑依」、「弱者の立場に立つことによって、絶対的な批判スタンスを確保する(あるいはエンターテインメントとして消費する)」と言う社会のあり方にまで言及している。
ここら辺、何か最近の震災報道にも通じるところがあるような・・・。
と言うか、作者はそのことも踏まえて論じてるんだろうね。
論調としては現状へのアジテーション的な色彩は強くないと思うけど、作品の根幹には極めて現在的な問題が横たわっていると思う。
(震災直後にあった上杉氏との軋轢が、安易な「記者クラブ批判」への一矢になってる・・・というと深読みしすぎかな?w)
作品のウェイト通り、本書で提示された解決の方向性(「当事者となる」)の部分は、もっと論じて欲しい感じは残る。
ただこれって「解決」なんかないコトなのかもしれないな。
「解決」を求めるあり方そのものが、「当事者」としてのスタンスを弱めてしまう・・・そんな感じもする。
インターネットの伸長は「当事者」としての発言を容易にして行くだろう。
その「当事者」がいかにして「当事者」であり続けるかってのは重要な視点。
その一方で、果たして「当事者」の視点だけで社会を構成し、批判的に改善して行くことができるのか・・・ってのも気になるなぁ。
これは今後のマスメディアとネット、さらには現実社会との関係性を考える上において、看過することのできないポイントなのかもしれない。
本書の論じる「当事者」であることの難しさって、なんだか少し前に読んだ「暇と退屈の倫理学」で論じられた「第二形式」のあり方の難しさに通じるなぁ・・・なんて思った。
「思考停止を避ける」って意味では通底してるように思う。
そう言う意味じゃ、ここに「時代」を反映する一つの思考がある。
・・・とまで言うと言い過ぎかw。
少なくとも読むに値する力作だと思うよ。