鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

「負け犬」に比べると共感の度合いが下がったかな?:読書録「家族終了」

・家族終了

著者:酒井順子

出版:集英社

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妻がFacebookで流れてきたニュース記事で、

「コメント欄がヒドイ!」

と憤ってた作品。

それで読んで見る気になるんだから、それはそれで…w。

(僕は読んでないんですが、コメントはほぼほぼ「負け犬」のレッテル貼に対する憤りだったよう。

まあ、分からなくはないかなぁ。

女性(酒井順子)が書いたことで社会認知されたちゃった(男性が乗っかった)ってのもありますから。作者のスタンスとは関係なく)

 

さて本書。

基本的に「着地点」には同感。

 

「家族」のあり方について、「多様なあり方」(法律婚のほか、事実婚、同性婚、同居etc)を認めていく方が、個人が自由になっていくし、息苦しさから解放される。(そのことが結果として少子化解消にも…)

 

<自分が生まれ育った家族のことを「生育家族」、結婚などをすることによってつくった家族を「創設家族」>

 

…知らんかった。

両親に続いて実兄もなくした作者は「生育家族」を失いつつあり(兄の子供は娘とのこと)、自身は同居者はいるけど結婚という形を取ってないので、「創設家族」も構成しきれていない(それを「家族」としても、子どもはいないので「その後」はない)。

「家族終了」を目前とした立場から、「家族」をめぐる現状から、今後の「新しい家族」について語っています。

ま、基本エッセイ。

…でありながら、何かしらの考察を加えていく、という酒井さんらしいスタイルになっています。

 

ただそういうスタイルが、僕にはちょっと合わなくなってきてるかなぁとも思いましたね。

「エッセイ」という<自分>をネタにして語るところから、大きな「何か」(本書の場合は「家族」)について課題や改革の方向性を提議していく…っていうのは、作者「個人」に立脚したところから話が展開するだけに具体性があって「共感」を呼びやすい。

一方で作者のパーソナリティに依拠してるだけに、そこに「共感」できない場合は、主張全体に対して距離感を感じざる得ない。

「負け犬」のころは、(男女の距離感はありながらも)僕はもっと酒井さんに「共感」できてたと思います。

でも本書の場合は、

「言ってることは分かるんだけど…」

と、ちょっと「距離感」というか「違和感」を感じざるを得なかったな、と。

同年代ながら(僕は65年生まれ、酒井さんは66年生まれ)、結婚して子供もできた僕と、同居者はいながらも「結婚」という道は選ばず、子供もいない酒井さんとの間には、同世代という共通項がありながら、思ったより「距離」があるのかも。

ま、テーマが「家族」だから尚更、ってのもあるかもしれません。

 

(「負け犬の遠吠え」のころ、作者の母親をはじめとする家族は存命で、だから家族のことは書けなかった…と作者はコメントしています。

でも実は「負け犬」の根本には家族(特には母親)との関係が影響してるんですよね。

そのことが本書では明かされていますが、同様に「家族」に関する考察の根本には「同居人」との関係が色濃くあるんじゃないか…というのが僕の推測。

まあ、酒井さんの同居人に興味があるわけじゃなりませんが、「創設家族」について語りながら、ここへの踏み込みが浅い(少なくとも同居人の意見は書かれていない)のはテーマとの対峙という点では物足りなさを感じます。

「まあ、エッセイですから」

と言っちゃえば、それはそれで終わりですがねw)

 

エッセイには「時代」の影響が強く出てくるし、それは「今」のように色々な面で社会の「あり方」が変わっている中では、より強く出てくるってのはあるかもしれません。

学生時代よく読んだ山口瞳や池波正太郎のエッセイなんかも、「今日的」には「…」かもしれませんしねぇ。

ま、僕と同世代の酒井さんにそんなことを言うのは失礼だし、同じとも思いませんがね。

でも「エッセイ」というもののあり方が変わってきている(「共感」というものが広く得にくくなって来ている)ってのはあるんじゃないか、とは思います。

 

いや、興味深い本なんですよ。

本書自体は。