鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

読書録「キャパの十字架」

・キャパの十字架
著者:沢木耕太郎
出版:文藝春秋



キャパの「崩れ落ちる兵士」については僕はずっと「フィクション」(演技をしてるところを撮ったもの)と思っていた。
これは「定説」になってると思ってたんだけど、最近「反証」(写されている兵士の特定と戦死の確認)がされてて、「あれは本当の戦死シーンだった」ってことになってたんですな。
その流れを知らなかったので、本書の一つの「主張」のインパクトは、僕自身にはあまり感じられない結果となってしまった。
ものを知らないと、物事が十分に楽しめないってことの実例ですw。



ま、作者が本書で指摘する主張の中で一番ショッキングなのはソコじゃないんで、楽しみがさほど損なわれたって感じもないけどね。
通例に対して本書が主張するのは以下。



1 「崩れ落ちる兵士」は「フィクション」。ただし「演技」じゃなくて、兵士がアクシデントで足を滑らしたところを、偶然に撮影したもの。

2 被写体の兵士は「通説」で言われている人物ではなく、撮影場所も異なる場所。

3 使われたカメラは「ライカ」ではなく、「ローライフレックス」。

4 キャパは「ライカ」で別の写真(「突撃する兵士」)を同時に撮影している。従って「崩れ下津兵士」を撮影したのはキャパではなく、同行していた(恋人でもあった)「ゲルダ・タロー」である。



勿論、最も衝撃的なのは「4」。
なにしろ、このムチャクチャ有名な作品を(「フィクション」であれ「真実の瞬間」であれ)撮影したのは「ロバート・キャパ」ではない・・・と言ってる訳だからね。
これは「キャパ信者」にとっては受け入れ難い「事実」だろう。



本書はこの「証明」のため、現地(スペイン)取材による撮影場所の特定、状況の確認・確定、さらにはカメラの性能やフィルムの状況等を確認・追跡することで、実に丹念に「通説」を覆して行く。上記の主張のうち「1」〜「3」は(現時点の物証では)証明されたと言ってもいいんじゃないかな?



問題は「4」。
その瞬間にキャパとゲルダが立ち会っていたとしても、その瞬間、どちらがどのカメラを持っていたかは特定できない。
勿論状況証拠は作者の主張を支えている。
しかし「確証」がないことも、また「事実」である。



それでいて本書が最も魅力的なのは、この「状況証拠」を踏まえて、キャパの「その後」を描く最終章(「キャパへの道」)だったりするんだけどねw。
これぞ「沢木耕太郎」って感じ。
実に具体的に、細かく、物証を追いかけ、状況を特定して行くそれまでと比べると、この章は極めて「文学的」な内容になっている。それまでの「事実」を追いかける姿勢があればこそ、この章の「情緒性」が際立つんだけど、「これがなきゃ」ってのが正直な感想かな。
一読者としては、「崩れ落ちる兵士」の真贋よりも、ここで描かれる「キャパ」の姿にこそ「価値がある」と思わざるを得ない。(それは作者もまた・・・だと思うけど)



スペイン戦争で若くして戦車に轢かれて死亡したゲルダの最後の写真。
その17年と8ヶ月後にインドシナで地雷を踏んで死亡したキャパの最後の写真。



最後に並べられた二枚の写真は、実に感慨深い。
「ロバート・キャパ」とは、「アンドレ・フリードマン」という人物の名前であるが、一時期は彼とゲルダのチーム名のような時期もあったんじゃないかね。
「崩れ落ちる兵士」はそういった時期に撮られた写真ないか、と。
だとすれば、「どちらがこの写真を撮ったのか?」ってのは、究極のところではどうでもよいことなのかもしれない。
偶然によってもたらされた「名声」と、「ゲルダの死」。それを抱えながら如何なる「人生」を「彼」は選択したのか?
作者が追いかける「キャパ」の物語はそこにある。



読み応えのある作品でした。