鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

ぶっちゃけ論理を追いきれませんでしたw。:読書録「<公正>を乗りこなす」

・<公正(フェアネス)>を乗りこなす 正義の反対は別の正義か
著者:朱喜哲
出版:太郎次郎社エディタス(Kindle版)

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プログマティズム言語哲学者の作者が、<正義>や<公正>といった「正しいことば」について、「定義」ではなく、「使い方」の観点から乗りこなし方を模索した作品。

 

<本書は、かならずしも正しいことばを「乗りこなす」ためのマニュアルではありません。ではなにかというと、正しいことばを運用するプロフェッショナルたちの巧みな乗りこなしやさりげない安全運転、そして、それとは逆に「事故」に直結してしまう危険運転、その両者についての解説付ケースブックのようなものになっています。多くの事例とその検討におつきあいいただくことを通じて、「正しいことば」につきまとう息苦しさ、苦手意識から解き放たれ、ちょっとくらいは気軽に乗ってみようと思われたならば、それ以上の喜びはありません。>

 

この「プロフェッショナルたち」っていうのは先行して「正義論」を研究した学者たち。
ロールズの「正義論」を核にしながら、ローティ、バーリン、シュクラー、ヤング、カヴェル…といった学者たちの主張や議論が紹介され、その中から「絶対的正義」を振り回すのではない、日常社会における<正義>の考え方について論じられています。
…ってまあ、よ〜分からんかったんやけどねぇ。
バク〜としたイメージみたいなもんは浮かんできてるんだけど、その根拠となる部分になると、今ひとつ…。
個人的には「それでも自分の考えの役には立つ」とは思っているんですけど。

 

 

もともとこの本を読んでみる気になったのは、この記事を読んで、です。

 

<「エビデンス」がないと駄目ですか? 数値がすくい取れない真理とは>
https://www.asahi.com/articles/ASRBZ3JWJRBWUCVL003.html

 

ネット界隈では相当叩かれた記事ですが、僕もどちらかというとネガティブ。
ネガティブなんだけど、何もかも「エビデンス」がなければダメかというと…ってモヤモヤ感があったところに本書を見かけて…というわけです。

 

本書の整理で言うと、<公的正義/私的正義(善)>のあたりかな?
社会システムを成立させ動かしていくための公的システムとしての「正義」と、
各個人やグループが、自分(たち)の中だけで共有・通用する「正義/善」。
この「公」と「私」を区分することで、社会を成立させるための<場>としての「正義」と、そこでの価値判断の根拠となる「公平」を、個人的情緒的道徳的価値判断としての「正義/善」と区分する…って言うのは個人的に腑に落ちました。
その観点から言うと引用した記事について言えば、


「エビデンスなしに個人としての心情や主張をするのは構わないが、<メディア>としての朝日新聞がそれを強く主張するのはどうか?虫とメディアとしては公的システムとしての「正義」を担う立場として、その個々の<善>を公的な主張に翻訳する役割が求められており、その翻訳に必要なのが「エビデンス」なのではないか?」


ってところでしょうかね、僕のモヤモヤは。
もちろん公/私がそんなにすっぱり切り分けるものではないし、<声>にならない(言語化できない)叫びをどう取り上げるのか…ってのは、それはそれで大きな課題としてあることは作者が投げかけてることでもあるんですが。

 

 

<わたしたち自身が自分たちの責任として、「正義」や「公正」といったことばをあつかえるようになったとして、現時点でそのようなことばをもたず、ひとえに「憤激」として表明された叫びについて、わたしは──そしてあなたは──それを聴きとることができるだろうか>

 

これはこれで重い問いかけです。
しかし政治やメディアは、まずもって「公的システム」そしての<正義>を担うことに自覚的であるべきだし、その認識を放棄するような立場を最初っから打ち出すことはどうかなと思います。
歴史を振り返れば、「憤激」が公的システムの<正義>を変革してきたことが何度もあったのも事実ですが、その声に流されるのではなく、その声を<正義>の場において<公平>さに反映させていくこと。
それが政治やメディアの役割だと思うわけです。

 

(格差と分断の問題は極めて現代的な課題と思いますが、そもそも「格差」の一方である層の<声>をどうやって「正しいことば」に変換するか…と言うのもあります。
トランプ旋風において、貧困白人層の<声>を翻訳することにメディアは失敗したし、日本においても貧困層やフェミニズム、LGBTQ等の各層を巡る言説で、<声>を翻訳しきれていないのではないか、と僕は感じています。
それは「マイノリティの声を聞け」と言うのとは違う次元の作業が必要だし、それこそが政治やメディアにとって重要なことなんだと思うんですけどね)

 

 

ちなみに対処のスタンスの一つの考え方として「過去遡及的な責任/未来志向的な責任」って考え方は、僕にはストンと腑に落ちました。

 

<彼女はこうした構造的不正義についての「責任」を、つぎの二種類に区別します。ひとつは過去遡及的な責任であり、もうひとつは未来志向的な責任です。  
前者は、いわば「犯人探し」です。なぜこうした構造的不正義がたち現れ、そして放置されているのか、過去のプロセスを遡って原因を特定し、かかわったひとびとや諸制度にそれぞれ責任を割り当て、その重さを認定するわけです。ヤングは──ロールズと同様に──こちらのタイプの「責任」を個々人に問うことはできない、と考えます。というのも、そもそも構造的不正義について、個々人が因果的な意味で担うべき責任というものを、適切に割り当てることなどできそうにありません。>

 

<後者の未来志向的な「責任」はどうでしょうか。こちらは、過去遡及的な責任の割り当てが実践的に成立しないとしてもなお残っている「わたしたちは、この構造的不正義をもたらし、現存させているプロセスに、なんらかのかたちではかかわっている」という直観に根ざしています。具体的に責任帰属をされ、責められるわけではないのですが、──むしろ、だからこそ──わたしたちは、現状の構造的プロセスを変化させ、不正義を解消していかなければいけないという未来に向けた責任を、みなで分有しているのです。>


<正義>の場における<公平>の指標として上手く使えればいいと思うんですけど、どうでしょう。
それこそメディアの出番だと思うんだけどなぁ〜。

 


まあ、本書をどこまで僕が理解できたかは甚だ怪しいですし、誤解してることもそこそこあるような気もします。
でも現時点で僕が考えたかったことの<杖>のようなものは与えてくれたかなって気はします。
まずはそれで十分かと。

 

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