鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

コロナ禍の現在、あからさまになって来ている日本の統治機構の課題を考える:読書録「公」

・公<おおやけ> 日本国・意思決定のマネジメントを問う

著者:猪瀬直樹

出版:NewsPicksPUBLISHING

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「なぜこんなにも意思決定過程が不明確なのか?」

「なぜ実務面でこんなにもガタガタするのか?」

「ファクトやロジックに基づかない決定がなぜされるのか?」…

 


コロナ対策の中で政府や自治体の対策を見ていると、そんなことを考えざるを得ません。

本書でも猪瀬さんは冒頭にコロナ対策における政府・自治体の右往左往について筆を割いています。

 


でもまあ、それって「コロナ対策」に限った話じゃないんですよね。

そこには「戦前」からつづく日本の統治機構の課題が横たわっている。

「猪瀬直樹」という作家は、そのことに意識的であり、そのことを作家としても、また実務者としても追いかけて来た存在です。

本書は猪瀬氏が「作家生活40年」の振り返りとして、自分の作品を、「日本の統治機構」への問題提起という観点から整理し直した内容になっています。

 


基本的には「官僚主義」なんですよね。土台にあるのは。

明治時代、国民の成熟度の低さから一気に民主主義的な制度を持ち込まず、実務を担う存在として組織した「官僚組織」。

彼らを使う側の指導者層(一義的には明治の元勲たち)がいなくなった時、その「官僚主義」がうまく機能せず、「敗北」が計算されていた第二次大戦に突入することになってしまった。

その構図は戦後も同じであり、今の「コロナ対策」にも現れている。

 


猪瀬氏は、この「官僚主義」をコントロールする存在として「家長としての作家」に期待します。

まあ、明治期の「元勲」に代わりうる「指導者層」としての存在ですね。

 


<課題をどのように解決すればよいか、欠点を集めて批判するのではなく、うまくできている事例を見つけることも必要になる。その道筋を探すのが、責任をとる「家長」としての作家の立場である。

行政や企業に責任を押しつけるのではなく、彼らが新しく生まれ変われるようなクリエイティブな提案をフリーハンドでする仕事が、日本の「近代」のなかで途絶えていた本来の広義での作家の仕事、クリエイターの役割である。>

 


まあ、猪瀬さんのいう「作家」ってのは、「小説家」とはだいぶ違いますがね(そこら辺が猪瀬さんの日本近代文学史研究に繋がるところです)。

そういう意味で「作家」っていう言葉を使うのがいいのかどうかは、チョット考えちゃいます。

「家長」という言葉も、イメージとしては古臭く、封建的な雰囲気もありますしねぇ。

(かと言って「責任をとるリーダー」とかいうと、軽くなっちゃうのも確かw)

 


個人的には「官僚機構を統治するクリエイティブなリーダー」の存在の必要性については同感なんですが、一方で明治期に断念された「民主主義的土壌の醸成」がどうなってるのか、ってのも気になるところではあります。

コロナ対策でのワイドショー騒ぎなんかを見てると、「なかなか…」と思う一方で、明確な指示や強制がなくても「統制」が取れた動きを、状況判断の中でする人々を見てると、そこに期待を持ってもいいのではないか、とも。

まあ、ここら辺、「双刃」なのは確かですが。

 


本書で猪瀬氏は都知事辞任をめぐるゴタゴタについても正直に書いています。

 


<だから僕はちょっと傲慢になっていたかもしれない。そこのところを足を掬われた。自らの落ち度で招いたことで反省している。>

 


しかし、彼が「やろう」としていた方向性には、僕は賛同できることが少なくありません。

 


現在、猪瀬氏は大阪府・大阪市の特別顧問を務めているようです。

吉村知事の対策の打ち出しに、ファクト(数字)・ロジックが重視されるのも、猪瀬さんのアドバイスなんかもあるんでしょうかね。

大阪の状況も決して油断できるような状況じゃありませんが、少なくとも対策の内容、打ち出し方、関係者とのコミュニケーションの取り方等、政府や他の自治体に比べて一歩抜き出たものがあることは確かだと思います。

この「コロナ対策」の動向が、今後の日本の統治機構のあり方に大きな一石を投じることになるかもしれません。

いや、そうなるように、猪瀬氏が今後も積極的に発言してくれることを僕は期待しています。

(「維新」に関しては、思うところもあるんですけどねw)