鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

この時期に作られたことには意味がある:映画評「Fukushima50」

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冒頭、いきなり「2011年3月11日 午後2時46分」のテロップ。

前置きなしで、東日本大震災が襲ってきます。

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ここから福島原発を襲う津波、全電源喪失…と、次々に訪れる苦難、そこへ取り組む作業員たちの苦闘、官邸・本店との軋轢…と、スピードと緊張感のある展開には引き込まれます。

少なくとも前半部分はかなりシャープな作りになっていると思いますよ。

 


現在、コロナ対応に追われる中、政府の判断の遅さや、現状確認の甘さ、判断の責任所在の曖昧さ、行政手続きの不全等が露わになっていますが、それは震災の時の原発対応の時にも通じるものなんだな…と再確認できます。

佐野史郎が演じる総理大臣はもちろん「菅直人」をモデルにしてるわけですが、別に彼が「悪役」なのではなく、あの立場・あのタイミングで、ああ言う言動になることはわからなくもないです。

あの時、誰が首相でも、上手くやれたとは思えないですから。

むしろそこに見えるのは、政府も含めた「日本的組織の不全」。

そう言う意味では「日本の課題」を、今のタイミングでもう一度明確にしてくれる映画とも言えるでしょう。

誰かも言ってましたが、ほんと「シン・ゴジラ」みたいですわw。

 


映画として「惜しい」と思うのは、途中から「人間ドラマ」に流れちゃうところ。

特に避難民や登場人物たちの「過去」シーン、在日米軍の対応等は、ドラマの緊張感を削いでしまっていると思います。

この辺りが「重要じゃない」と言うのではなくて、「重要だからこそ、この尺で描くのは無理」という意味ですね。

ここら辺、直前に見た「シカゴ7裁判」とは対照的。

シーンを絞ることで緊張感とスピード感を保ちながら、カットバックを使うことで、事態の深さや広がりもしっかりと観る側に伝える。

ああいうやり方があったんじゃないかな…と思わずには得られませんでした。

 


個人的には東日本大震災後の東電を巡る一連の流れには思うところがあります。

首都圏の大停電をギリギリで回避した東電の現場の人たちの懸命な取り組みにはもっとスポットライトが当たるべきだとも思っています(彼らとその家族は、言われなき非難にも晒されました)。

もちろん福島を避難した人々の苦難にも。

だからこそ、安易にシーンを組み込むのはどうかな…と感じたと言うのもあります。

(まあ、ここら辺を描くのは、まだ早いのかもしれません。自分自身、まだ整理がついていない部分があります)

 


映画の最後では「復興五輪」に触れられます。

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「まだ早い」

 


そう言われてるような気がしました。