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結局哲学に関しては「入門書」止まりだったなぁ:読書録「現代思想入門」

・現代思想入門

著者:千葉雅也

出版:講談社現代新書(Kindle)

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「現代思想」の代表として、デリタ、ドゥルーズ、フーコーを位置付けて、その思想と意義について論じるとともに、その源流となる思想(ニーチェ、フロイト、マルクス)やバックボーンとなる精神分析についてもふれた上で、on the wayの<現代>思想として「ポスト・ポスト構造主義」まで論じた作品。

色々最近見かける作者さんですが、ナカナカ整理がクレバーだし、単に「哲学」「思想」として概念的な話をするだけでなく、それが具体的にどういう風に人間の考え方や社会のあり方と関係しているのかにまで関連づけて論じる等、興味深く読むことができました。

(ここら辺、「テクスト」の深みを一旦切り捨てて簡略化しつつも、日常生活や社会との接点を重視する姿勢は、「入門書」として誠実な姿勢だとも思います)

 


僕個人についていえば、大学入学時にちょうど浅田彰の「構造と力」を読んだ世代。

そっから大学時代は「ニュー・アカデミズム」に振り回されたしw、その中でフーコー、デリタ、ドゥルーズ(ドゥルーズーガタリ)、ソシュール、レヴィ=ストロースなんかを、「わからん」ながらも読んだりしていました。

…とか言いながら、ここに至って「入門書」である本書を読んで、

「なるほど、そうかぁ」

とか思ってるわけですから、つくづく身にはつかんかったんやなぁと、情けなくもなりますがねw。

 


<現代思想はもはや「二〇世紀遺産」であり、伝統芸能のようになっていて、読み方を継承する必要があります。などという意識を持つようになるとは、かつては想像もしませんでした。>

 


なんかそう言われちゃうと、自分まで「二〇世紀遺産」になっちゃったような気がせんでもないですけど。

 


「現代思想」が<脱構築>や<差異>によって、思想の中央集権的なあり方に揺らぎを与えたのに対して、そのことが「相対主義」につながってしまうリスクへの反省から、「ポスト・ポスト構造主義」が<存在>や<ファクト>の再評価に流れているあたりの解説は、かなり興味深いし、面白かったです。(…って、このザクっとしたまとめは僕の個人的な思い込みかもしれませんがw)

 


<デリダ、ドゥルーズ、フーコーにおいて共通して問題とされているのは、「これが正しい意味だ」と確定できず、つねに視点のとり方によって意味づけが変動するという、意味の決定不可能性、あるいは相対性です。  

ただし、これが言わんとするのは、決定不可能だから何も言えないということではなく、「物事は複雑だ」ということです。多義的、両義的だということです。>

<ただ、こういう現代思想の傾向は単純化され、素朴な相対主義として捉えられることがよくあります。「物事はどうにでも捉えられる」とか、「そういう立場をとっていると歴史修正主義になる」とか、「「ポスト・トゥルース」と言われるような勝手な事実認識の押しつけや陰謀論を許容することになるのではないか」と言われたりするのです。>

 


<「人間は過剰である」という人間像が現代思想においてデフォルトなのだけれど、それに対して一部の常識的な批判者が、「ファクトが大事だ」、「どうにでも解釈できるのではない揺るがぬ客観的事実がある」という批判を向けるようになっています。そしてこれらと同時代的な、似たような批判として、メイヤスーらの実在論がある。>

 


じゃあ、そこから「ポスト構造主義」以前の<大きな物語>的な思想・哲学に回帰しちゃうかということはなくて、そこはさらに徹底される。

 


<フランス現代思想、あるいは悪い意味でのポストモダン思想は、「物事は相対的で、どうにでも言えると言っているから陰謀論を招き寄せてしまう。だから客観的事実をちゃんと追求しよう」などと言われるわけですが、メイヤスーにおいては、「確かに客観的事実というものはあるのだが、客観的事実の客観性を突き詰めるならば、客観的事実は根本的に偶然的なものであり、いくらでも変化しうる」という、より高次の、実在それ自体に及ぶ相対主義のようなものが出てくることになります。>

 


そこに作者はフーコーが見出した「ローマの賢人」のあり方を見出したりしています。

「反省」はするけど、それを「原罪」のような<大きな物語>につなげるのではなく、そのこと自体への「反省」に止める…って感じですかね。

フーコーの著作にはその「あり方」が具体的に書かれています。

 


<それは、彼が毎晩、ひとたびすべての明かりが消えた後で、眠りにつく前に行う検討である。ここで問題となるのは、その日一日の調査を、起こったことの全体を「精査」しつつ行うことである。彼は、自分の行為と自分の言葉をとり上げ直し、それらに評価を下す。(……)しかし、そうした調査が、断罪や罰へと導くわけではないことに注目する必要がある。懲罰もなければ悔恨さえもない。したがって畏れもなく、何であろうと自己自身に対して隠すことを望んでもいない。実際、自分を検討する者は、自分に対してただ単に次のように言うだけである。「私は今、君を許す」、「二度と繰り返さぬよう気をつけよ」、と。つまり、モデルとなっているのはおそらく、司法というよりもむしろ行政なのだ。テクストに潜むイメージは、法廷よりもむしろ監査を思わせる。精査、検討、探知、再評価がなされるのである。>

 


今の「リベラル」の苦境は<大きな物語>(正義・大義)の押し付けにあると思ってるんですが、そことは違う「あり方」がここでは示唆されているように思います。

猪瀬直樹さんが「維新」から出馬する際のインタビューなんかで言ってることはチョット近いかも。

<大きな物語>に沿って「改革」をしていくんじゃなくて、目の前の不具合を「改革」していくことこそが重要なんだ…って感覚。

まあ、僕自身としては(今のウクライナ情勢なんかを考えると)<大きな物語>を全く視野の外に置いてしまうことの是非も考えざるを得ないって面はあるんですけどね。

 

 

 

本書は「付録」として「現代思想の読み方」がついています。

 


<①概念の二項対立を意識する。  

②固有名詞や豆知識的なものは無視して読み、必要なら後で調べる。  

③「格調高い」レトリックに振り回されない。  

④原典はフランス語、西洋の言語だということで、英語と似たものだとして文法構造を多少意識する。>

 


という4つのポイントを掲げて、ドゥルーズ・デリタの文章を読み直してるんですが、ここは爆笑もの。

「なんかカッコつけてるな」

「「カマし」のレトリックにツッコまない」

「お飾りを切り詰めて骨組みだけを取り出す」

「言い訳の高度な不良性」

言いたい放題です。

まあ、だからってそこを補正した文章が簡単で分かりやすいかっていうと、そこまででもないんですが。

 


「現代思想」に一時期触れてた僕としてはかなり楽しい読書体験でした。(若干忸怩たる思いはあるもののw)

誰にでもおすすめ…って感じでもないですが。

 

 

 

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