鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

読書録「ウィキリークス以後の日本」

・ウィキリークス以後の日本 自由報道協会(仮)とメディア革命
著者:上杉隆
出版:光文社新書



震災直後はテレビを点けっぱなしだった。
普段僕は殆どテレビを見ないので(朝、時計代わりに少し見るくらい)、久しぶりにテレビ漬けの毎日。
でもテレビから流れてくる情報は圧倒的で、映像と速報性を併せ持つテレビと言うメディアの強みを痛感させられる数日間だった。
その映像の力によって、東北地方の壊滅的な被害が把握できるようになり、被災地に立ちすくむ人々の心情に心を寄せることが出来るようになったのもテレビの力だろう。



ただ、それも数日。
電車の間引き運転や計画停電等、震災に対応した対策が講じられるようになり、自分自身の生活にそれらが影響を及ぼすことが明らかになると、テレビの情報の「網」が粗く感じられるようになる。
いつ自分の住む地域が停電するのか?
通勤ルートの間引き運転の状況は?
こう言った情報を入手するには、テレビで流れる情報を待っているだけでは時間がかかりすぎる。
それらの情報はネットでピンポイントで検索することが出来るのだ。
この段階で、インターネット情報が生活の中で大きな位置を占めるようになった。



そして福島原発事故。

錯綜する情報と、理解しがたい専門用語。
情報を発信する(発信しない)政府・東電に対する苛立ち。

これらを整理するために僕はネット情報により頼るようになっている。
加えてTwitter・FacebookといったSNSは、これらの情報を入手する間口としての機能を強く果たしてくれている。
映像のインパクトや、多くの視聴者を意識した分かりやすい解説といった側面からテレビメディアも一定程度活用してはいる(特にNHKはね)。
新聞情報も、情報の一覧性という意味では、未だに重要な情報源の一つだ。

だがもっともコアとなる情報はネット情報に移行しているように感じているのも事実。
震災は僕の情報環境を大きく変革してしまった。


本書で作者はウィキリークスについて簡潔に解説し、それが世界・日本に及ぼすインパクトを論じている。
その先には持論である「記者クラブ」の弊害を訴え、その対抗のために立ち上げた「自由報道協会(仮)」の意義について語っているのだが・・・


多分、それらのことは、今進行している震災対応におけるネットメディアの存在意義によって、また大きく変わっていると思う。
これらのことは、現在の事態がある程度収拾した後に検証されるべきことなんだろうけど、自分自身の経験から実感していることだ。


(まあネットだけになるなんてことはないけどね。
デマの拡散にあったようにネットの弱点も明らかになっている。
原発を巡るツイッターの中にも感情的になりすぎてるものがあって、やはりここらへんをしっかり検証し、まとめるメディアの必要性は感じる。
要はツールの使い分け。
そのことが意識的に行われ、仕組み化されるべきだと個人的には思っている)



果たしてそれがいいことなのかどうか。
正直、僕にも分からない。
しかし一度開いてしまったパンドラの箱を閉じることは出来ない。
善かれ悪しかれ、僕たちは前に進んで行くしかないのだろう。


個人的には「期待」もしてるんだけどね。
さてどうなりますやら。

(キラキラを上杉氏が降板させられたように、抵抗勢力も確かにあるからね。ただ今回の震災でそうした勢力は大きく自分たちの存在基盤を毀損してしまったことも確かなんじゃないか、と思ってます)