鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

安定の第三作。作る必然性はなしw:映画評「ジョニー・イングリッシュ アナログの逆襲」

ローワン・アトキンソンの007パロディ「ジョニー・イングリッシュ  」シリーズ第3弾。

 

f:id:aso4045:20190821111205j:image
ジョニー・イングリッシュ    アナログの逆襲


1作目が03年、2作目が11年。

ペースからいえば、ここら辺でって感じですかね?

あんまり必然性はないけどw。


1作目から15年。

イングリッシュは引退して学校の先生に。

しかし緊急事態が発生し、現役復帰となって…


以降はいつもの「ジョニー・イングリッシュ  」。

パワーダウンもしてないけど、パワーアップもしてませんw。

ま、それでいいんですが。


エマ・トンプソンがアルコール依存症の首相を演じてたりするのも「お楽しみ」ドコロ。

Brexitでガタガタしてる最中でしょうに、そんな気配が全くないのもw。


楽しめるけど、別に作んなくても良かったんちゃう?

…ってのが正直な感想です。

7、8年後に4作目が作られたら、また観ちゃうとは思いますがw。

「テロ」をどう評価するかというのは難しい:読書録「女たちのテロル」

・女たちのテロル

著者:ブレイディみかこ

出版:岩波書店

f:id:aso4045:20190820110620j:image


パンクな社会主義者(w)・ブレイディみかこさんが、ほぼ100年ほど前に社会に対峙して苦闘した3人の女性の「伝記」を描いた作品。

取り上げられるのが、この3人。


・金子文子(大逆事件の<首謀者>のひとり)

・エミリー・デイヴィンソン(英国の女性参政権活動家。ダービーで国王の馬に飛び込んで死亡)

・マーガレット・スキニダー(アイルランドのイースター蜂起のスナイパー)


メインとなるのが「金子文子」で、その歩みに呼応する形で他の二人にも言及するスタイル、かな。

ただ「暴力の行使」で言うと、「金子文子」は<冤罪>臭いのに対して、他の二人はガチ。ただ<生き方>としての腹の座り方は、三人とも「只者ではない」って感じ。


実は娘の夏休みの宿題に絡めて、「参考になるかなぁ」とも思って買ってみたんですが、「とても、とても」って感じでしたw。


歴史の中に埋もれているような女性闘士の「伝記」と言う意味では興味深い作品です。

(関東大震災時の朝鮮人大虐殺については最低限の知識はありましたが、「大杉栄」は知ってても、「金子文子」のことはあんまり知りませんでした)

「女性の地位向上」や「民族独立」と言う視点からは、彼女たちの苦闘を高く評価する…というのは理解できます。


一方で、作品として「テロル」という言葉を置くのが適当なのかどうかについては、考えさせられます。


「金子文子」については「テロ」という点では首謀者じゃないし、そもそも「予謀」としても成立してたかどうかは、大いに怪しい。

「マーガレット・スキニダー」は「テロ」というより「独立戦争」を戦ったと評価すべきでしょう。

一番テロに近いのは「エミリー・デイヴィンソン」ですが、それでも手法としては今の「テロ」とは随分と違う。


言葉として「テロル」を置くことで、インパクトを与えるという点については理解しますし、

「現状に対する異議申し立てとして、<暴力>を容認する」

という意味では「テロ」と言ってもいいのかもしれない。


ただこれだけ現実社会において「テロ」が問題となっているタイミングで、そこに呼応するような単語を置くことがプラスだったのか、マイナスだったのか。

個人的には悩ましいところだと思うんですけどね。(それも含めての問題提起、という意義はあり得るとも思います)


まあ、何にせよ、「腹の座った」女たちの、一種清々しさも感じさせもする闘いっぷりを一読する価値はあるかな。

(「それに比べると、朴烈とかなぁ…」とか思ったりして。それはそれで<時代>と対峙した結果なのかもしれないし、キッカケとなった官警の拷問とか考えると、軽々に言うべきことではないか)

女性達は今も戦っているけど、こういう「手法」を選ばなくても良くなってはいる…と言う点には感謝しつつ。


…なってるよね?

「トゥルー・ロマンス」の向こう側:映画評「アザーフッド」

Netflixオリジナル映画。

「母の日」に息子からの連絡がない母親3人がブチ切れて、マンハッタンのそれぞれの息子のところに押しかける、というお話。

 

f:id:aso4045:20190819102752j:image

アザーフッド 私の人生

 

まあ、話としては「そこそこ楽しめる」…かな?

母親3人がNY近郊のそこそこの邸宅に住んでるし、3人の息子たちもブルックリンでマアマアの生活をしている(小説家志望の一人はちょっと微妙)。

「母の日に連絡がない!」

ってくらいでキレちゃうあたりも、「そこそこの生活してるから」の不満でもあるか、と。

そういうクラスの家族のドタバタ劇を楽しめるかどうか、ですかね。

(僕は嫌いではないけど、もうチョイ、パンチが欲しかった)

 

ちなみに3人の母親を演じるのが、

フェリシティ・ハフマン、アンジェラ・パセット、そしてパトリシア・アークエット。

「そうか、トゥルー・ロマンスのアラバマも母親役か」

ひさしく観てなかったので、久しぶりに観て…。

 

「…おばちゃん?」

 

息子への異常干渉する「オバちゃん」ぶりに、なんか複雑な気分にもなりました。

 

歳取るはずやわなぁ…。

 

f:id:aso4045:20190819102923j:image

 

難しい時代やね:「マスター・オブ・ゼロ」「アジズ・アンサリの“今”をブッタ斬り」

「ふたりきりで話そう」を読んで、星野源さんが楽しんでいるというコメントのあった「マスター・オブ・ゼロ」がちょっと気になりました。

 

f:id:aso4045:20190818160005j:image

マスター・オブ・ゼロ

 

で、第1話を観たんですが、

「面白いけど、50代妻子持ちむけじゃないかな?」

(<20代、30代、独身都会生活者向け>って印象。音楽の趣味が良いです)

 

ただ主人公の「アジズ・アンサリ」がどの程度の人気者なのかが気になってググったら、

「ん?セクハラ?」

ただ詳細を確認してみると、

「ん〜、これでセクハラって言われると…」

って感じ。

 

<ハリウッドのセクハラ騒動:ここまで来ると便乗?行き過ぎ「#MeToo」に女性からも批判>

https://news.yahoo.co.jp/byline/saruwatariyuki/20180118-00080580/

 

そこら辺、自分でもコメントしたライブがNetflixにあると知って、観てみました。

 

f:id:aso4045:20190818160449j:image

アジズ・アンサリの“今”をブッタ斬り

 

スパイク・ジョーンズが監督してるという作品。(まあ、さほどど画や編集のシャープさが求められる作品じゃないけどw)

冒頭、アンサリ自身がセクハラ騒動にコメントとしています。

まあ、この謙虚さはクレバーですね。

 

で、1時間ほどのライブ(スタンドアップコメディ)を観て思ったのは、

「いやぁ、難しい時代やわぁ」

 

マイノリティであるアンサリは上手くそこらへんを扱い、笑いに持って行けてますが、それでも「う〜ん」ってところがある。

あるんだけど、じゃあ「ポリティカル・コレクトネスなんて!」って風にもならないんですよね。

それは「上級国民/下級国民」でもコメントされてたけど、PCが「現代」を生きていく上においての最低限の「振る舞い」になってるからでしょう。

ただそのことが「行き過ぎ」になったり、「現実とミスマッチ」したりしてきてもいる。

そこらへんを笑いにしながら、PCのバランスを調整していく。

…そんな感じかなぁ。

 

僕は「日本のお笑い」が「遅れてる」とは思わないし、別に「政治」をネタにしなくてもいいとは思ってます。

(爆笑度合いなら、日本のお笑いの方が僕は笑えます)

ただこういうこと(あからさまな「差別」や「いじめ」だけじゃなく、立場による差別や圧力)に対して、あまりにも無自覚すぎるかな、とは。

そこら辺が徐々に表に出てきて、色々ゴタゴタしつつも調整局面に入ってるのが<日本>の現状なのかなとも思いますね。

 

なかなか大変だけどなぁ。

 

アニメ表現のスゴさと、内容のなさのコラボ:映画評「夜は短し歩けよ乙女」

星野源の対談ムック本を読んでたら、彼が声優をやったこのアニメの話が出てて、その流れで。

 

f:id:aso4045:20190818103411j:image

夜は短し歩けよ乙女

 

原作は森見登美彦。で、監督は湯浅政明。

湯浅さんは「スゴい」とは聞いてたんですが、実際に作品を観るのは、これが初めてかな。

デビルマンは「見なきゃ」と思いつつ、なんとなくスルーしてますんで…

 

いやぁ、でも実際に見て、

「あ、確かにこれはすごいや」

と思いました。

もう、初っ端からそのアニメ表現の質の高さに引っ張り込まれます。

ここら辺、(方向性は違うんだけど)「スパイダーバース」にも通じるかな?

 

でもって「話の下らなさ」w。(褒めてます)

これは原作がそうだから、まあそのまんまとも言えるんですが、アニメの技術と演出のスキルが高いだけに、そのギャップがまた際立つという…。

それが狙いでもあるんでしょうけど。

 

前半のリアルとファンタジーが重なるあたりが実に楽しくて、ファンタジー面が強くなる終盤の展開は逆に飽きちゃった感もなきにしも…ですが、それはまあ人それぞれ。

「湯浅政明」という存在のスゴさってのは、確かに認識することができました。

 

「DEVILMAN crybaby」

観なきゃなぁ。

 

BGMはPopVirus:「星野源 ふたりきりで話そう」

前のムックも良かったですけどね。

 

<音楽の話をしよう>

http://aso4045.hatenablog.com/entry/2018/07/29/103921

 

今回はスタッフも入れずにふたりきりで。

写真も自撮りとのこと。

 

f:id:aso4045:20190817172556j:image

f:id:aso4045:20190817172604j:image

 

距離感がまた縮まった雰囲気で、いい感じです読むことができます。

 

MIKIKO、日村勇紀、香取慎吾、石田ゆり子、友近、山岸聖太、渡辺直美、吉田ユニ、坂口健太郎、三浦大知、中村七之助

 

暑いから、外にも出ずに、畳でゴロゴロしながら読了。

そう言うのがちょうどいい感じの一冊。

 

ほとんど諦めの境地:読書録「上級国民/下級国民」

・上級国民/下級国民

著者:橘玲

出版:小学館新書

f:id:aso4045:20190817074657j:image

 

「言ってはいけない」「不都合な真実」の橘玲氏が、日本/世界における<分断><格差>について解説した作品。

う〜ん、それほど驚くことはないかなぁ。

「そうだよねぇ」って感じでしたw。

 

・<団塊の世代>を守るために、「若者」(新卒者)の雇用が割りを食ったのが、「雇用崩壊」

・専業主婦が就業にスライドしたが、その受け皿が「非正規雇用」だった

・日本では「大卒」と「非大卒」では大きな断絶・格差がある

・知織化社会・リベラル化・グローバル化が格差と分断を進めていく

・<思想>よりも<文化><生活習慣><生活スタイル>での分断が進む(そこに経済格差が絡んでもいる)

etc,etc

 

「不都合な真実」はモテ・非モテのあたりかな。

まあそこは僕は「ネタ」として読みましたがねw。

証明もしようもないし、「だからどう」ともできないですし。

煽りは「上級国民」「下級国民」というレッテルでしょうか。

実際には「上級国民」にレッテルされる人は「国民」としてのアイデンティティはそこまで強くなく、「世界市民」的な意識を持っています。(「愛国心」とは別の話ですよ)

つまり「上級国民」というのでは<事実>ではなく、「下級国民」と自嘲する層からの(屈折した)蔑称でしかありません。

 

本書は「解説」はしていますが、「方策」はほとんど示してくれません。(<私に妙案があるわけではない>と作者も自認しています)

その作者が思い描く分断の<これから>はこんな感じです。

 

<私は、2020年にトランプが再選されれば、アメリカの「リバタニア」の住民たちは自分たちの社会に興味を失うのではないかと思っています。「アイデンティティの衝突」につき合っていてもなにひとついいことはないばかりは、不愉快な思いをするだけですから(中略)

そうなれば、リベラルは都市郊外の高級住宅地にひきこもり、インターネットのヴァーチャル空間でグローバルな「リバタニア」とつながり、国境を自由に越えてビジネスしたりバカンスを楽しんだりするようになるでしょう。「ボボズ(リベラル)」たちが現実世界から撤退しはじめるのです。

(中略)もちろん日本も例外ではありません。

これこそが、私たちが体験している「リベラル化する世界の分断」なのです。>

 

ある種の「デストピア」予想。

でもなんか、「それもしゃ〜ないかなぁ」って思う自分もいるんですよね。どっかに。

なんか「ネトウヨ」や「日本人アイデンティティ主義者」の振る舞いやら、それに振り回される政治や行政なんかを見てると。

まあ、僕は<郊外の高級住宅地>に住んでるわけでも、<国境を自由に越えてビジネスしたりバカンスをたのし楽しんだり>してるわけじゃありませんが。(ハワイには行ったかw。ま、このポジションが僕の悩ましさです)

 

世界同時株安の気配があって、さて「トランプ再選はあるか?」ですが、だからって<分断>や<格差>がなくなるわけではないでしょう。(それは<知織化社会・リベラル化・グローバル化>の必然であり、それを逆回転させることは<貧困>と<差別>の時代に戻ることを意味します)

そこを踏まえて<包摂>と<再分配>の文化・政策を推進していく必要があるんですが、そこに期待できるかどうかってのが…

 

作者が希望を持ってるのが、「シンギュラリティ以降のAI」。

「んな、アホな」

と思う一方、そう思わざるをえないほど、この<分断>と<格差>の根は深く、こんがらがってる。

ほんと、「どうせえっちゅうねん」って感じなんですよねぇ。

 

「それはそれとして、個人として(家族として)の<生き残り戦略>を考えるしかない」

 

結局はそういうことなのかもしれません。

諦めたくはないんだけど…。