鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

コレも、よく描いてました。

フィアット500以外にも「よく描いてたな」と思い出したのが、「タバコ」のパッケージ。

安西水丸さんのイラストの影響かな?

 

ショッポ、ピース、ジタン、キャメル、ラッキーストライク…

 

と、その時その時に吸ってたタバコのパッケージを、ノートやら何やらに、何の気なしに落書きしてました。

 

さて、禁煙して既に15年くらい。

今までの喫煙歴で、最後に吸ってたのが「ラッキーストライク」。

で、描いてみました。

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まあ、しかしなんか締まりませんな。

もちろん<腕>の問題もありますが、パッケージの下の部分が…。

ある種のダンディズムのようなものを感じさせる要素を邪魔しようと言う意図なのではないか…とw。

 

タバコを巡る環境は「平成」の間にホントに大きく変わりましたね。

入社した頃は、会社の自分の机で吸ってたもんなぁ。

(とは言え、ジタンを吸ったときには、流石に周りに怒られましたがw)

 

今や「喫煙室」すらないビルも…。

「喫煙者は採用しない」

って会社もありました。

 

まあ、僕ももう一度吸い始めることはないでしょうね、さすがに。

飲み会の時なんかに、ちょっとあった貰いタバコも、随分としてません。

(周りに吸ってる人がいても気にはならないんですけど)

 

いい方向に変わって来てはいるんでしょう。

個人的には「喫煙権」にも配慮してあげて欲しいとは、(元・喫煙者として)思ったりもしていますが。

これも「時代の流れ」。

 

…とか言って、10年くらいしたら、みんな「大麻」を吸うようになってたりしてw。

僕たちは「時代」と「場所」に縛られている。

Facebookで流れてきた記事で知ったんですが、

 

<村上春樹さん、亡き父の戦争体験つづる 文芸春秋に寄稿>

https://www.asahi.com/amp/articles/ASM584S8TM58UCVL00W.html

 

文藝春秋の最新号(2019年6月号)に村上春樹さんが自分の父親について語った小文が掲載されています。

 

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「猫を棄てる  父親について語るときに僕の語ること」


父君は甲陽学院の国語教師だった…のは知ってましたが、ここまで「不仲」だったのは知りませんでした。(まあ、知ってる必要もないですけど)


小文は父親の戦時中の経歴を追うことを中心に、「時代」と「人」の関係について語っています。

僕自身の父が昨年死んだこともありますが(ウチはこんな不仲じゃなかったとは思いますw)、「平成」から「令和」への移行の中で表に出てきているアレやコレやなんかを連想させられて、個人的にもちょっと心に残る文章になりました。


<おそらく僕らはみんな、それぞれの世代の空気を吸い込み、その固有の重力を背負って生きていくしかないのだろう。そしてその枠組みの傾向の中で成長していくしかないのだろう。良い悪いではなく、それが自然の成り立ちなのだ。ちょうど今の若い世代の人々が、親たちの世代の神経をこまめに苛立たせ続けているのと同じように。>


<我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。>


…なんか後半は「ブレードランナー」のバディのセリフを思い出させたりもして…w。(雨の中の涙)


こう言うことを書くのも村上春樹さんが歳取ってきたから、こう言う文章に心打たれるのも僕が歳取ってきたから。

要は<去る>ことを身近に意識するようになったからかなぁ…と。


もっとも「何を受け継いでいくのか」もまた、それぞれの一滴によって変わってくるってのもあるでしょう。

今後の天皇家を巡るアレやコレやのやりとりなんかを見てても。


僕はまあ、「集合的な何か」を考えるよりも「雨水の一滴」として、「今」を考えて行きたいって感じかなぁ。

一言で言えば「今を楽しむ」w。


エピキュリアン?


そこまで徹底したんもんじゃありませんよ。

準備はしておかないと:読書録「定年夫婦のトリセツ」

・定年夫婦のトリセツ

著者:黒川伊保子

出版:SB新書

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「妻のトリセツ」の作者の新作。

柳の下…?

まあ、引っ掛かっちゃったわけですがw。


「男性脳/女性脳」に関する僕のスタンスは前作の感想と同様ですね。


<読書録「妻のトリセツ」>

http://aso4045.hatenablog.com/entry/2018/10/25/211114


そういうことはあるかもしれんけど、それを「社会的制度的」や「評価」に組み込んでいくことにはネガティブ…ってトコかな?

ま、作者自身もそのことはよく分かってる(ご自身がバリバリのワーキングウーマンですし)とは思いますけどね。


一方、「対処療法としては意味がある」っていう点でも、前作とも同様。

「定年夫婦」になるにはまだ少しあると思いますが、その準備は必要ですし。

昨年、単身赴任が解消されて、同居。さらに4月から下の娘が中1になって、妻との距離感ってのもまた変わって来てる感じもありますw。


そこらへんを端的にまとめた<「夫の禁則」五箇条>。(「妻の禁則」もありますw)


<一、妻の行き先をいちいち聞かない

二、朝食を食べながら「昼食は?夕食は?」と聞かない

三、「たまの正論」を振りかざさない

四、妻を手足がわりにしない

五、ことばをケチらない>


「一」には、

「明日一緒に外出する予定の時、『何時に家を出る?』と聞かない」

と言うのがありました。

「いや、それは聞くやろ」

と思ったんですが、妻に聞いてみると「分かる」。

要は家事(食器洗いや洗濯etc)なんかをしてると時間がハッキリと読めないところもあって、それを区切られるのはストレス…と言う感じのようです。(もちろん列車の時間等がある場合は別。フラッと買い物に行く…みたいな外出です)

なるほどな〜、と。

「いや、時間がハッキリした方が段取りつけやすいんじゃ…」

ってのが「男性脳」…らしいです。


まあ、人それぞれってところもあるでしょうから、何でもかんでもってことはないと思いますが、気になったら妻に聞いて見た方がいいかも、です。

そういう「会話」が重要かもしれませんしね。


ちなみに「妻の禁則」は以下。


<一、いきなりストッキングを履かない

二、ことばの裏を読まない

三、口角を下げない

四、縄張りを侵さない

五、「あ〜もうこれやらなくていいんだ」は言わない>


僕としては「一」「五」あたりはそうでもないかな?

「そうだよな〜」は「二」。

さて、リビングに置いておいたこの本を、妻は読むかな?w

セルシー、閉鎖。

4/26付けの案内なんで、GW前に掲示されたようですが、ちゃんと読んでなかったw。

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5月末で閉鎖。

 

まあそうでしょうね。大阪北地震から1年近く、ほぼ放置でしたから。

駅までの通勤ルートが通れなくなるんで、チョット遠回りになりますが、まあ仕方がない。

 

「次の展開」

に期待です。

(再開発ネ)

「負け犬」に比べると共感の度合いが下がったかな?:読書録「家族終了」

・家族終了

著者:酒井順子

出版:集英社

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妻がFacebookで流れてきたニュース記事で、

「コメント欄がヒドイ!」

と憤ってた作品。

それで読んで見る気になるんだから、それはそれで…w。

(僕は読んでないんですが、コメントはほぼほぼ「負け犬」のレッテル貼に対する憤りだったよう。

まあ、分からなくはないかなぁ。

女性(酒井順子)が書いたことで社会認知されたちゃった(男性が乗っかった)ってのもありますから。作者のスタンスとは関係なく)

 

さて本書。

基本的に「着地点」には同感。

 

「家族」のあり方について、「多様なあり方」(法律婚のほか、事実婚、同性婚、同居etc)を認めていく方が、個人が自由になっていくし、息苦しさから解放される。(そのことが結果として少子化解消にも…)

 

<自分が生まれ育った家族のことを「生育家族」、結婚などをすることによってつくった家族を「創設家族」>

 

…知らんかった。

両親に続いて実兄もなくした作者は「生育家族」を失いつつあり(兄の子供は娘とのこと)、自身は同居者はいるけど結婚という形を取ってないので、「創設家族」も構成しきれていない(それを「家族」としても、子どもはいないので「その後」はない)。

「家族終了」を目前とした立場から、「家族」をめぐる現状から、今後の「新しい家族」について語っています。

ま、基本エッセイ。

…でありながら、何かしらの考察を加えていく、という酒井さんらしいスタイルになっています。

 

ただそういうスタイルが、僕にはちょっと合わなくなってきてるかなぁとも思いましたね。

「エッセイ」という<自分>をネタにして語るところから、大きな「何か」(本書の場合は「家族」)について課題や改革の方向性を提議していく…っていうのは、作者「個人」に立脚したところから話が展開するだけに具体性があって「共感」を呼びやすい。

一方で作者のパーソナリティに依拠してるだけに、そこに「共感」できない場合は、主張全体に対して距離感を感じざる得ない。

「負け犬」のころは、(男女の距離感はありながらも)僕はもっと酒井さんに「共感」できてたと思います。

でも本書の場合は、

「言ってることは分かるんだけど…」

と、ちょっと「距離感」というか「違和感」を感じざるを得なかったな、と。

同年代ながら(僕は65年生まれ、酒井さんは66年生まれ)、結婚して子供もできた僕と、同居者はいながらも「結婚」という道は選ばず、子供もいない酒井さんとの間には、同世代という共通項がありながら、思ったより「距離」があるのかも。

ま、テーマが「家族」だから尚更、ってのもあるかもしれません。

 

(「負け犬の遠吠え」のころ、作者の母親をはじめとする家族は存命で、だから家族のことは書けなかった…と作者はコメントしています。

でも実は「負け犬」の根本には家族(特には母親)との関係が影響してるんですよね。

そのことが本書では明かされていますが、同様に「家族」に関する考察の根本には「同居人」との関係が色濃くあるんじゃないか…というのが僕の推測。

まあ、酒井さんの同居人に興味があるわけじゃなりませんが、「創設家族」について語りながら、ここへの踏み込みが浅い(少なくとも同居人の意見は書かれていない)のはテーマとの対峙という点では物足りなさを感じます。

「まあ、エッセイですから」

と言っちゃえば、それはそれで終わりですがねw)

 

エッセイには「時代」の影響が強く出てくるし、それは「今」のように色々な面で社会の「あり方」が変わっている中では、より強く出てくるってのはあるかもしれません。

学生時代よく読んだ山口瞳や池波正太郎のエッセイなんかも、「今日的」には「…」かもしれませんしねぇ。

ま、僕と同世代の酒井さんにそんなことを言うのは失礼だし、同じとも思いませんがね。

でも「エッセイ」というもののあり方が変わってきている(「共感」というものが広く得にくくなって来ている)ってのはあるんじゃないか、とは思います。

 

いや、興味深い本なんですよ。

本書自体は。

 

昭和のおっさんは前途多難。

昨日のGWの最終日。

子どもたちは「カラオケに行きたい」。

じゃあ…と予約しようとすると、


「子どもだけで行きたい」


いやいや、そういう訳には…


「じゃあ、お母さんだけ」


え?お父さんは?


「あかん」


…と言う訳で妻と子ども二人で「シダックス」へ。

僕はその時間、散髪でした…。

 

さて、今朝、Facebookで回ってきた記事。

 

<66歳男性が風呂場で涙… 友人もいない老後を憂う相談者に鴻上尚史が指摘した、人間関係で絶対に言ってはいけない言葉>

https://dot.asahi.com/dot/2019042600016.html?page=1

 

ふむ。

 

さすがにこの相談者ほどではないと思いたいんですが、カラオケにJOINを拒まれた僕としては、ちと痛い。

曰く、

 

「自分たちの選曲に文句をつける」

「からかう」

 

…だそうなので。

 

(ま、ほかに

「歌が昭和」

「勝手にドンドン予約を入れていく」

…ってのもありましたが)

 

「令和」になって、益々「昭和」は遠くなっていくなぁ。

 

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…歌いたかったんだけどね。久しぶりに。

「加藤剛」の遺作です:映画評「今夜、ロマンス劇場で」

予告編とか事前情報だと、

 

「ローマの休日」+「カイロの紫のバラ」

 

…ってとこかなぁ、と思ってたんですが。

 

一部はアタリ。(序盤の映画内映画は「ローマの休日」のコピーだし)

ただそんな安易な考えで作られた作品ではなかったです。

…なかったんですが、僕はピンとこなかったなぁ。

 

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「今夜、ロマンス劇場で」

 

量産される中で忘れ去られる映画作品たち

日本映画黄金時代を支え、時代と共に去って行った人々

…そういう泡沫の想いへの無償の愛

 

…やりたいことは分からなくもない。

でもそれが十分に物語の中に消化されなくって、結局「作り物」っぽさが抜けきれなくなっている感じとでも申しましょうか。

いやまあ、「作り物」なんですけどねw。

(そういう意味では長い「エピローグ」をもっと丁寧にやって欲しかったかな。もっと「時代の流れ」を感じさせて欲しかったです)

 

昔「カイロの紫のバラ」を観た時、

「よく出来てるし、ラストの着地点も見事だけど、ちょっと切なすぎる」

と思ったことを思い出しました。

でも、やっぱりアレはアレしかないんですな。

改めてお見事な映画やな、と。

 

本作は加藤剛さんの遺作のようです。

そして加藤剛さんは、やっぱり加藤剛さん。

最後もキッチリ「二」の線です。

コレはコレで、お見事。