鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

「絵」が無茶苦茶キレイです。:映画評「えんとつ町のプペル」

娘の希望で、西野亮廣製作総指揮(原作・脚本)のこの映画を観に行きました。

年末の月曜日(有休調整で休みを取りました)。

客の入りは「まあまあ」ですかね。

そりゃ「鬼滅」には敵いませんが。

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娘はかなり気に入ったようです。

僕も予想以上に「絵」が仕上がってるんで、ちょっとビックリ。

展開も早くて、退屈せずに観ることが出来ました。

芸人が片手間に作った映画…とは確かに違うでしょう。

 


<以下、ネタバレがあります。見る予定がある方は読まないでください>

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ただ個人的には肌合いが合わない映画かな〜とも思いました。

色々裏設定がありそう…ってのは分かるんですが、それにしてももう少し説明してほしい(セリフとかなくてね)ってのがあります。

 


特に「えんとつ町」の由来のところ。

これがノイズになって、最後まで気になって入りきれなかったのが、僕としては痛かったです。

 


「えんとつ町」は250年前にできてるんですが、そもそもは「腐るお金<L>」をベースにしたある種のユートピアを作る目的で設立されてるんですよね。(<L>はまあ、「マイナス金利」みたいなもんですね。<富の集積>を回避するのが目的。理論的にはありうる仕組みです)

「えんとつの煙」も、住んでる人の目を塞ぐのではなくて、<L>を快く思わない中央政府(初代の長官はそのために処刑されています)の追跡の目を逃れるために講じられた対策。

最初はそれもうまく行っていた。

しかし時が経つにつれ、それが住民の目を塞ぐものとなり、異なる意見を持つものを異端とし、外部との接触を禁じる制度へと変化してしまい…。

 


「善意から始まったことが、悪意に変じる」

…って設定ではあるんですが、

「じゃあ、この世界を開いた時、再び中央政府の圧政に潰されるリスクをどう考えるのか」

そこのところが見えなくて、なんだかモヤモヤして、終盤の展開に乗り切れなかった、というのが僕の正直な感想です。

250年経ってますからね。

「外の世界も変化してる」

…とかいう「説明」でもあれば、また違ったのかもしれませんが。

(作品的には「正解があるかどうかわからないけど、とにかくやってみよう!」「やってみてもないくせに、批判ばっかり言うな!」ってとこがあるんで、そういう「説明」そのものを避けたのかもしれません)

 


「夢をみよう」

「夢を追いかける奴を馬鹿にしちゃいけない」

 


そのことを否定するつもりはありませんし、「そうだよな〜」とも思います。

 


<2020年。たくさんの人が涙を流し、たくさんの夢や希望が消えてしまいました。

世界は黒い煙で覆われ、まるで「えんとつ町」のよう。誰も見上げることをしません。

 


(中略)「えんとつ町のプペル」は黒い煙を突き破り、星空を見つけるまでの希望の物語です。2020年に公開する意味がある作品だと思いました。もはや「えんとつ町のプペル」は一個人の物語ではありません。この作品が、コロナ禍で負けそうになりながら、それでも踏ん張っている全ての人への応援歌になると幸いです。>(西野亮廣。パンフレットより)

 


その通り。

でも同時に、「闇雲に突き進む」ってのも、今の「コロナ禍」の中では極めてリスキーだし、それが社会全体にマイナスに働いてしまうことだって考えられます。

煙を吹き払い、外の世界と繋がった結果、再び中央政府の圧政の下に置かれることとなり、自由だけではなく、圧倒的な貧富の差や階級格差に見舞われることになるかもしれません。

 


「それでも前に進むことが大切なんだ!」

 


…とまでは、僕は思えないんですよね。

だからそこに「一言」欲しかった。

歳取ったからかなぁ。