鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

「経済学」そのものの限界を巡る対立だったのかも:読書録「ケインズかハイエクか」

・ケインズかハイエクか 資本主義を動かした世紀の対決
著者:ニコラス・ワプショット 訳:久保恵美子
出版:新潮文庫

ケインズかハイエクか: 資本主義を動かした世紀の対決 (新潮文庫―Science & History Collection)

ケインズかハイエクか: 資本主義を動かした世紀の対決 (新潮文庫―Science & History Collection)


「アベノミクス」の成否が問われ、BREXISTが現実の課題となり、世界で「格差」が重要課題として認識され始め、テロによる暴力的な「異議申し立て」が各地で噴出し、それと裏腹に「ポピュリズム」の台頭と選良主義の限界が露わとなり…


「今」足元で起こってることは、産業革命以降の近代が迎える幾度めかの危機なのかもしれません。
その最大のポイントが「経済」。
そしてケインズとハイエクとの対立と言うのは、「経済」がメインイシューとなる時代の先駆的で本質的な「問題提議」だったんじゃないか、と僕は思っています。
端的に言えば、「大きな政府か、小さな政府か」。
もう一歩踏み込めば、「我々は、自分たち自身をコントロールすることができるのか?」。
自己言及的なテーマを対象とする「経済学」にとっては本質的な問いかけでもあると思います。


学問的なスタンスの差は、以下でしょうかね。


<ハイエクが固執していたのが、経済を構成する費用や価値などのさまざまな要素に注目する、のちに「ミクロ経済学」と呼ばれる考え方だったのに対し、ケインズは経済のしくみを考える新たな方法、すなわち経済全体を判断する「マクロ経済学」の思考に飛躍しようとしていた。>


そしてケインズの視野を踏襲しつつ、ハイエク的な分析によって政策を構築したのが、フリードマンって感じでしょうか?
この「マクロ経済学」という枠組みそのものに対する「異議申し立て」もあると認識していますが、僕自身は「『今』直面する苦境に対して、『何もしない』という選択肢を取ることは、人間的に難しい」との考えから、ケインズ/フリードマン的なスタンス寄りです。
確かに長期的には「何もしない」ことで「神の手」が働くのかもしれません。でも、
<長期的には、みんな死んでいる>(ケインズ)
…まあ、だから、それが極めて「政治的」な色彩を帯びるのもやむを得ないでしょう。それは「経済学」にとっては避けえないことだと思います。


したがってケインズとハイエクの対立には「人間」に対する楽観論と悲観論の対立という側面が色濃くあったとも思います。


<ケインズが、人間は自分の運命を管理する役割を与えられていると考えていたのに対し、ハイエクはある程度不本意ながらも、人間は他のあらゆる自然の法則に従わざるを得ないのと同様に、経済の自然な法則にもしたがって生きることを運命づけられていると考えていた。(中略)ケインズは、権力ある立場の人々が正しい決定を下しさえすれば、人生は必ずしも本来のように厳しいものではなくなるという楽観的な見方を選択した。ハイエクは、人間の努力には絶対的な限界が定められており、自然の法則を変えようとする試みは、たとえ善意からであっても予想外の結果に終わるのが関の山であるとの悲観的な意見を支持した。>


…なかなか難しい選択です。特にインターネットによって情報の共有化が恐るべきスピードと規模でなされるようになった中で、<権力ある立場の人々が正しい決定を下しさえすれば>ということを社会的に期待することが出来るのかどうか…。
一方で「規制緩和による民間企業の暴走」はリーマンショックによって醜いまでに露わとなりました。「それも調整局面の途中」と言われて納得できるもんでもないでしょう。


とどのつまり、我々は「ケインズ」と「ハイエク」の「狭間」を歩いていくしかないのかもしれません。
蛇行しながら。
(とか、偉そうなこと言ってますが、二人の学術的な主張については、本書を読んでても「?」ではありましたw。そこら辺読み飛ばしても、十分面白くて刺激的な作品ではありましたがね)


もっとも「アベノミクス」について言えば、「規制緩和」に大胆に踏み込む必要があると思いますけどね。