・庭の話
著者:宇野常寛
出版:講談社(Kindle版)

SNSなどのプラットフォームが分断や格差を広げていく現代において、その克服をどのように成し遂げていくかについて考察した作品。
なんですけど、なんだかエッセイみたいな題名の割に、かなり幅広く深い論考がされていて、なかなか僕の理解が追いつかない感じでした。
読んでる途中でハラリの新作が出たりして、そっちのほうに浮気しているうちに、なんだか話がわからなくなって、途中でギブアップしようかとも思ったんですけど、そのタイミングで宇野さんのこの動画を見て、まぁなんとなくフォローアップできました。
https://youtu.be/NFcaInbD2mg?si=CTt9CSpZlmzNBvP5
おかげで最後まで行けたって感じかな。
全然理解には足りないと思うけど。
(Amazonより)
『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』への刮目すべき挑戦が現れた。
情報社会論より発せられた「庭」と「制作」という提案から私は目を離すことができずにいる。(國分功一郎)
プラットフォーム経済に支配された現代社会。しかし、そこには人間本来の多様性が失われている。
著者は「庭」という概念を通じて、テクノロジーと自然が共生する新たな社会像を提示する。(安宅和人)
*プラットフォーム資本主義と人間との関係はどうあるべきなのか?
ケア、民藝、パターン・ランゲージ、中動態、そして「作庭」。一見無関係なさまざまな分野の知見を総動員してプラットフォームでも、コモンズでもない「庭」と呼ばれるあらたな公共空間のモデルを構想する。『遅いインターネット』から4年、疫病と戦争を経たこの時代にもっとも切実に求められている、情報技術が失わせたものを回復するための智慧がここに。
【目次】
#1 プラットフォームから「庭」へ
#2 「動いている庭」と多自然ガーデニング
#3 「庭」の条件
#4 「ムジナの庭」と事物のコレクティフ
#5 ケアから民藝へ、民藝からパターン・ランゲージへ
#6 「浪費」から「制作」へ
#7 すでに回復されている「中動態の世界」
#8 「家」から「庭」へ
#9 孤独について
#10 コモンズから(プラットフォームではなく)「庭」へ
#11 戦争と一人の女、疫病と一人の男
#12 弱い自立
#13 消費から制作へ
#14 「庭の条件」から「人間の条件」へ
「家」族から国「家」まで、ここしばらく、人類は「家」のことばかりを考えすぎてきたのではないか。しかし人間は「家」だけで暮らしていくのではない。「家庭」という言葉が示すように、そこには「庭」があるのだ。家という関係の絶対性の外部がその暮らしの場に設けられていることが、人間には必要なのではないか。(中略)/「家」の内部で承認の交換を反復するだけでは見えないもの、触れられないものが「庭」という事物と事物の自律的なコミュニケーションが生態系をなす場には渦巻いている。事物そのものへの、問題そのものへのコミュニケーションを取り戻すために、いま、私たちは「庭」を再構築しなければいけないのだ。プラットフォームを「庭」に変えていくことが必要なのだ。(本文より)
SNSなんかによる分断の話になってくると、よくその克服のためには「共同体」とか「コモンズ」の話が出てくるんだけど、僕自身は
「まぁそういう方向性も必要なんだろうなぁ」
とは思いつつも、どうにも「共同体」の持つ閉鎖性みたいなものが気になっちゃうんですよね。
そこら辺のとこに宇野さんはすごく意識的で、本書の中でも上にあげた動画の中でもかなり強く主張をされています。
まぁ動画の方はちょっと口が汚すぎるような気もするけどw。
でもやっぱり共同体ってその中には、ピラミッドが成立しがちだし、権力の構図みたいなものもどうしても生まれちゃうんだよね。同調圧力もあるし。
そういうところを避けたいというのが、僕の基本的なスタンスでもあったし、その点で宇野さんが言ってることにはすごく共感が持てました。
新マンの「怪獣使いと少年」。
名作ですよ。あれは。
だから「孤独」が許容されるような社会を作っていく必要があるんじゃないかと言うのは、僕も賛成です。
ただ、「制作」の話なんかは「どうかなぁ」って言うところがなきにしもあらずなんですよね。
いや確かにおっしゃってる事はよくわかるし、それはそうなんだろうなぁと思うんだけど「制作」とか「創作」っていうのは、それはそれなりにハードルが高い作業だと思うんです。
そのハードル自体が超えられない人を、「共同体」に馴染めない人がいるように、結局は排除してしまうと言う方向性になっちゃうんじゃないかっていうのがちょっと懸念です。
…とか思いながら、読んでるところにChatGPTが画像生成機能のバージョンアップをして、かなり簡単にいろいろな絵の生成ができるようになりました。
これってある意味「制作」「創作」のハードルをグッと下げた機能ですよね。
今回は「絵」に関する改訂だったけど、もしかしたら今後文章とかの創作のハードルも下がってくるのかもしれないし、3Dプリンターなんかでもっといろんなものが手軽に作れるようになってくるのかもしれない。
情報技術の発展が「制作」のハードルをグッと引き下げることによって、宇野さんが言うような「庭」の可能性が身近になってくると言うこともあるのかもしれないな。
ChatGPTでいろいろ絵を描かせたりしながらそんなことを考えています。
後半には吉本隆明ー糸井重里ラインの論考があって、「ほぼ日」の立ち位置に関する考えが披露されています。
僕は「ほぼ日手帳」を使わなくなって以来、ほぼ日とは距離があるんですけど(別に嫌いないなったわけじゃないし、巻頭言は時々読んでます)、かなり納得感がありました。
確か東日本大震災のときだったと思うんだけど、糸井さんが発信した
<ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。「より脅かしてないほう」を選びます。「より正義を語らないほう」を選びます。「より失礼でないほう」を選びます。そして「よりユーモアのあるほう」を選びます>
って発言を僕はかなり大切にしてるし、自分自身の指針にもしてるんですが、そのスタンスが「正しさ」や「正義」を排してしまっているという指摘には不意をつかれた感もありました。
(個人の指針としては「ありうべし」とは依然として思ってますけど。「正義を語ること」は諸刃だからなぁ)
まあ全体としてはリーチが広すぎて僕にとっては「理解できた」とは言い難い作品ではありましたね。
完全に僕の読解力の問題ですけど。
ただ60歳になって、「共同体」とは違う社会との接点のあり方を考えると言う意味じゃ、ちょっと面白い視点を示してもらったかな、という気もしています。
「孤独」に閉じこもってネット空間に踏み込んで行ったら、ネトウヨかネトリベにまっしぐらになっちゃうかもしれんからねw。
別に「共同体」が悪いわけじゃないし、それはそれで大切なことでもあるんだけど、60超えて同調圧力に振り回されんでもええやんとも思ってるわけです。
だからChatGPTで色々遊んでるって訳でもないけどさw。
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