鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

近親憎悪?w:読書録「『意識高い系』の研究」

・「意識高い系」の研究
著者:古谷経衡
出版:文春新書

「意識高い系」の研究 (文春新書)

「意識高い系」の研究 (文春新書)


妻が「面白かったよ」と言ってた作品。
実際、面白かったです。ある種「キョーレツ」でもありますがw。


作者自身のスタンスは「おわりに」でしっかり書かれています。この「自己開示」はなかなか大したもんじゃないかなぁ。これがあるからこそ、本文での「実名」を挙げての批評もリアリティが感じられます。


<私は出自において(中略)「意識高い系」のすべての要素を兼ね備えているが、この「嫉妬を隠さない」という自意識の一点においてのみ、私は自らを「意識高い系」とは思わない。>


…激しい批判の口調は「近親憎悪」にも近いのかも。
そして僕自身もまた、決してその範疇から遠い存在ではないんだよなぁ…などと思ったりもして。(自撮りはそんなにしませんがw)


本書が面白いのは「意識高い系」を定義する前に「リア充」を定義しているところですかね。
<土地>と<スクールカースト>を基軸にしたこの定義は、自分では思いもしてなかったけど、言われると納得感高かったです。
その典型例が「木更津キャッツアイ」というのも…。
(学生時代、スクールカーストの支配層にいたジモッティが「リア充」ってことですね、端的に言えば)
東京ですら、地元民の比率が70%近くになってるってのは、個人的感覚とは違ってて、ちょっと驚きました。高度成長期の「感覚」が僕にも刻印されてるようです。


「意識高い系」は言ってみれば、<スクールカースト>の苦い思い出から、<土地>を離れた人間が「自己改革」をしようとする姿(一部<スクールカースト>下位の地元民含む)。
「自己改革」に真摯に取り組み、地道な努力と研鑽を重ねる人は「意識高い人」。
「自己改革」を夢見、大言壮語は吐くけれど、その大義の実現のための努力や実践には十分に取り組まず、承認欲求などの卑小な個人の欲望の方が強くバランスを失してしまっているのが「意識高い系」。
「系」っていうのが「もどき」っていうのは、「意識高い人」っていうのは、それはそれで確かに存在するからですね。
それを「模倣」しながら、結局は自分の卑小な欲求のみを優先し、裏付けとなる地道な積み重ねをしないところに「意識高い系」の気持ち悪さがある…ってのは、「確かになぁ」と思います。


「結局、自己認識をしっかりしつつ、地道に努力し、積み上げていくしかない」


まあ、言っちゃえばそういうこと。
当たり前と言えば当たり前だけど、この「当たり前」のことをやらないからこそ、「意識高い系」は問題なんですよ。


でも現状に安住しちゃうような<リア充>に比べれば、「意識高い系」が「系」を否定し、自らの欲望を是認しつつ、地道な積み上げを行なって行くことで、<自己改革>だけでなく、<社会を変える>「意識高い人」となりうる可能性すらある。
…ってのは<リア充>に対して複雑な思いを持つ僕の「僻み」でしょうかねw。