書店で見かけたとき、FBで友人が「面白い」と言ってたのを思い出して購入。
キラキラで「イケメン哲学者」として丁度紹介されたってタイミングでもあったんだけどねw。
「暇」と「退屈」について、哲学史を踏まえながら、「パスカル」から「ハイデッガー」までを概覧しつつ、その現代的意義を考察する・・・ってな内容?
その「結論」を作者は三つ記している。
「こうしなければ、ああしなければ、と思い煩う必要はない」
「贅沢を取り戻すこと」
「動物になること」
ただ作者自身も言明しているように、
<本を読むとは、その論述の付き合い方をそれぞれの読者が発見して行く過程である。>
<(結論は)本書を通読するという過程を経てはじめて意味を持つ。>(P.341)
まあこの手の本で「結論」だけ読んだって意味はないわなw。
「思考」という経験こそが、「哲学」の根幹なんじゃないかと、僕も思う。
というワケで、本書を読み、その「結論」に一定の納得感を覚えつつ、僕が考えていたのは、
「なぜ今、これが書かれるのだろうか?」
ということ。
そこにはやっぱり「時代」の雰囲気が反映してるんじゃないかと考えるのが当然だろう。
そして「今」という時代を考えると、「忙しくも退屈な時代」、あるいはハイデッガーの言う「第三形式」への誘惑に満ちた時代という様相が見えるんじゃないかな?
ハイデッガーの思想を考えるとき、ナチズムとの関係を看過することは出来ない。
「第二形式」に可能性を見る作者が、ハイデッガーを批判的に取り上げるのは、そういう時代認識、すなわち「決断」によってファシズム的衝動に社会が身を委ねてしまう危険性があるのではと考えているからではないか
・・・ってのは考え過ぎ?
少なくとも僕は考えたけどね。
(震災の被害と原発事故に見舞われた日本の現状は、よりこの「誘惑」が強くなっているかもしれない。
政治の混迷ぶりを見ると尚更・・・。
ただそれ故に「橋下徹」をその勢力と見るのは単純すぎるとも思いますが(橋下氏はこの危険性に対して意識的だと僕は思っている))
結局作者が言っているのは、「思考停止に陥るな」ってことかもしれない。
「第二形式」における「贅沢」によって生の豊潤さを認識しつつ、現実的行動においては「第一形式」的な「思い込み」も評価する。
しかしそこにとらわれ続けるのではなく、思考の自由性は常にキープする。
・・・うーん、ここら辺まで書いちゃうと、そうとう誤読もありそうだなぁw。
まあ僕はそんなことを考えたと言うことで。(僕はここら辺のスタンスを「選択」として定義している。あくまでも個人的な定義だけどね)
しかし人間ってのは「宙づり」な状態に堪え難いところがあるからなぁ。
「決断」の誘惑ってのは、煎じ詰めると、そういうところに発するんじゃないか、と。
個々の局面では確かに「決断」が必要なときもあるだけに、これはナカナカ難しい話。
・・・と言うのが、本書を読んだ後に僕が考えてることだったりする。
「暇」やねw。