・一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル
著者:東浩紀
出版:講談社
興味深く、刺激的な作品。
でも一方で現実との距離感については「?」ってとこもあったかな。凄く示唆に富む内容だとは思うけどね。
作者自身、「エッセイ」と称してるように、社会思想系の本としては、具体的でわかりやすかったと思うよ。
椎名誠のエッセイ読むようには行かないけどねw。
内容については「10章」に作者自身がまとめてくれている。
<第一に、近代民主主義の基礎である「一般意志」は集合的な無意識を意味する概念だということ。そして第二に、情報技術は集合的な無意識を可視化する技術であり、したがってこれからの統治はその分析を活かすべきだということ。>(P.169)
<大衆の無意識を徹底的に可視化し、制約条件として受け入れながらも、意識の光を失わない国家。熟議とデータベースが補いあい、ときに衝突することによって、(欲望と闘う思春期の少年のように)よろよろと運営される国家。そのヴィジョンが本書の議論の第三の柱を構成している。>(P.171)
<未来の統治は、大衆の無意識を排除するのではなく、かといってその無意識に盲目的に従うのでもなく、情報技術を用いて無意識を可視化したうえで、その制御を志すものとなるべきである。それが、さきほど述べた三つのテーゼから導かれる、本書の提案ということになる。>(P.174)
これだけ読むと「分かりやすく」ないかもしんないけど、全体を通すと、実に読みやすくて、理解しやすい。
「ニコニコ動画」を引き合いに出して、あそこの「コメント」が、高度な情報技術によって市民の無意識を可視化したものとして、熟議の場に影響を与えるってイメージは、(ニコニコ動画を知ってれば)かなり分かりやすい…とか。
まあそれだけに「底が浅い」と指摘されるかもしてんがねw。(作者は承知している)
鳩山政権ができて、鳩山氏のアカウントが登場した頃、僕自身、Twitterに代表されるSNSが「政治」を変える可能性を垣間見た記憶がある。
その後、震災を挟んで政治やメディアが揺れ動く中で、SNSの限界のようなものも感じてきてはいるものの、基本的にそのインパクトに対しては僕は肯定的だ。
特に未来軸ではね。
そう言う意味で、本書のスタンスは僕には受け入れやすかった。
ただまあ、やっぱり「限界」もあると思うんだよね。
作者もそのことには意識的だと思うけど、オッさんなだけに、僕の方がその「限界」を強く意識してしまってるのかもしんないw。
「無意識」を可視化する情報技術の実現性や、中立性
集合知の正しさ
複雑化し、膨大となる事案への関与出来る層の限界…
「懸念」よりは「疑念」に近いかな。
ここら辺は。
あるいは作者は「一般意志2.0」の未来社会をこんな風に言っている。
<動物的な生の安全は国家が保障し、人間的な生の自由は市場が提供する。それが本書が構想する未来世界の公理である。>(P.240)
<五〇年後、一〇〇年後の世界においては、ひとを動物的な生から人間的な生へと連れ出してくれるのは、国家でなく市場になることだろう。>(P.250)
ではその「市場」は何によって制御されるのか?
「可視化された無意識」の制約となるようなシステムを「市場」に組み込むことはできるのか?
「暴走する資本主義」を考えると、必要とされるのはそちらこそかもしれない。
…とかねw。
まあそういう思念がアレコレ浮かび上がってくるほど、本書が刺激的だったとは言えるだろう。
情報技術の発達によって可視化された市民の意見や感情、それらにリーチが届くツール
こう言ったものを社会の中に活かして行くべき。
この点は僕も賛成だし、熟議に影響させる形で関与する作者の考え方は面白いと思うよ。
世界経済が急速に速度と一体化を進める中で、そういった仕組みを築き上げることは重要なポイントなのかもしれないな、とも感じている。
ところで作者はこうした社会の姿を、こう評している。
<コンピュータとネットワークがあらゆる環境に埋め込まれ、人々がイデオロギーによってではなく、むしろ生存と消費の欲望によって(中略)のみ結びつき、国家を構成するようになった世界。(中略)ある意味で退屈な未来。>( P.236)
「政治」と言うエリアではそうかも。
でも「市場」に委譲された社会機能を巡ってはそうも言ってられないんじゃないか、と。
一番の違和感はここかなぁ。
もう一歩、ここいらに突っ込んで貰えると、もっと面白かったんだけど…。
それじゃ長くなり過ぎるかw。