鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

(メモ)「危機と人類」:フィンランドの教育

フィンランドの教育水準が高いことは有名。

本書でも以下のように紹介されています。

 


<国民を有効活用し、生産性を高めるために、フィンランドの学校制度は、全員に良い教育を授けることを目標としている。ほんの一部にだけ良い教育を提供し、大多数には低質な教育を授けるというアメリカの教育システムとはまったく異なる。フィンランドでは、公立学校で平等に良質な教育を受けることができ、私立学校の数はごくわずかだ。アメリカ人富裕層からみると驚きだが、私立学校も公立学校と同水準の公費援助を受けている。また、授業料や入学金を取ったり、寄付金を集めたりして、運営資金を増やすことも許されていないのだ!  アメリカでは教員の社会的地位は低く、学生時代の成績が下位だった者が就くことが多い。一方、フィンランドでは教員採用の競争が非常に激しく、もっとも優秀な学生が教員になる。社会的地位は高く(大学教授よりも上だ!)、給与も高く、全員が大学院の学位を持っており、教授法についても大きな裁量が認められている。これが国際的な学習到達度調査において、フィンランドの生徒たちが読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーで世界トップクラスに入るという結果につながっている。>

 


でもコレは「フィンランドが大国に隣接した小国」だからこその必死の顕でもあります。

まずは少ない国民(600万人)で、一定以上の経済力を確保するための「生産性」を産み出す人材を育成すること。

そして「大国の隣国である小国」が取らざるを得ない政策を理解し、支持できる国民を育成すること。

 

 

 

「フィンランド化」と言われ、国際社会から非難される政策。

 


<一九七九年のニューヨーク・タイムズ紙は「フィンランド化」をこう定義している。「全体主義的な超大国の勢力と無慈悲な政治に恐れをなした近隣の弱小国が、浅ましくも主権国家としての自由を譲り渡すという、みっともない状況」。フィンランド化を公然と非難する人々は、フィンランドの政策は腰抜けの政策であると考えている。

 


フィンランドがおこなったことの多くが実際、西側諸国の専門家を震撼させるのは事実だ。ソ連の逆鱗に触れないために、大統領選挙が延期されたり、大統領候補が出馬を取り下げたり、出版社が書籍刊行を中止したり、報道機関が自己検閲をしたり、などということは、アメリカやドイツでは絶対に起こり得ない。そういう方策は、民主国家の権利である行動の自由を侵害しているようにみえる。>

 


だがフィンランドが生き残っていくにはそうするしかなかった。

その「合理的政策判断」を支持できる国民を育てること。

おそらくフィンランドで教育が重視されるのはそう言う側面もあるのではないか、と。

 


これってある意味「国権主義的」とも言えると思うんですよね。

そういう関連から考えると、「国家が教育に予算を振り分ける」と言うのには、それなりの意味がある。

現状の日本において、もっと教育を重視し、予算を増やすべき…というのは僕も強く思っています。

ただ同時に

「金だけ渡して後は現場任せ」

と言うわけにいかないのも当然と思います。

フィンランドや明治政府のような、国家のあり方を見据えた教育への投資…と言うのはやはり必要です。

 


ただまあ「だから何でも政府の言う通りにしろ」って話ではないですよ。

その前に「国家観」を大いに議論し、そこで方向性の合意を得る必要があります。

その上で、その方向性に沿った「合理的政策」を打ち出していく。

 


「桜を見る会」の人選に、この方向性と合意、合理性があるかっちゅうと…。