鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

肯定派はマジで戦略を考え直した方がいい:読書録「古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。」

・古典は本当に必要なのか、否定論者と論議して本気で考えてみた。

編:勝又基、否定派:猿倉信彦・前田賢一、肯定派:渡部泰明・福田安典、司会:飯倉洋一

出版:文学通信

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HONZで書評が出てて、面白そうなんでポチッと。

読み始めたら止まらなくて、1日で読破してしまいましたw。

 


まずは僕のスタンス。

「古文」に関しては劣等生でしたが、「古典」の重要性は高いと考えています。

ただ「文法のための文法」としての古文には否定的で、それは「学問としてやるべき人が追求すればいい」とのスタンス。(嫌いだったから…ってのは否定しませんw)

そういう意味では、

「中学まで文法を教える<古文>は必須で、高校は選択制。ただし<古典>としてコンテンツは国語教育の中で教えることは重要(その場合は「現代語訳」になります)。大学入試は、<古文>はセンター的なものでは対象とせず、大学が個別に実施する入試には学部によっては対象としても可」

あたりが「中高教育における古文」の位置付けとしては妥当と思っています。

 


本書で一番ショックだったのは、「肯定派がほとんど否定派の主張に応えていない/答えられていない」という点です。(その点は肯定派である司会者も編者も認めています)

猿倉氏は「圧勝」と言ってますが、(それで「正しさが証明された」訳ではないにせよ)シンポジウムとしては「その通り」と言わざるを得ないと思います。

しかも背景を記した勝又氏の文章を読むと、

 


<猿倉氏の発表趣旨、「現代を生きるのに必要度の低い教養である古典を高校生に教えるのは即刻やめるべき」は、過激さに目を奪われがちだが、実は考え抜かれたものである。氏はシンポジウムが始まる数日前に、約6000字におよぶ発表素案を肯定派パネリストに送り、「目からウロコの反論が聞きたい」と申し出た。そこで提出されたのが、「高校生に古典教育は必要か」という論点である。>

 


とのことなので、肯定派にとっても「不意打ち」ではなかったはず。

にも関わらず、肯定派サイドの発表が「古典っていいもんだよ」「古典文学研究にも意義があるんだよ」という漠とした主張(反論にもなってない)のではどうにもならない。(否定派は古典を否定するのではなく、「それは好きな人がやればいいんじゃないの」といってるのであり、しかも最低バーとしての教育の必要性は中学教育において認めている)

確かに肯定派の人選が「学者」で、「教育の専門家」ではない点にズレはあるとはいえ、(英語入試の民間業者導入が社会的議論になるように)高校教育のあり方は一般的に語られて然るべきテーマであり、そのテーマに対して専門家の知見を背景とした反論は当然のことながら「ありうべし」であったと思います。

(「いいもんですよ」とだけいって、限られた資源(「高校教育」という時間)における優先順位付けを避けるのは、「判断は他人任せ」という点において「逃げ」とも言えますし、その結果優先順位が落ちた時、文句だけ言うのはやめてくれ…と言いたくなるでしょう)

 


ここら辺の感覚差について、司会の飯倉氏は、

 


<司会の感触としては、古典教育・古典研究の場においては、日本に暮らす以上、日本の古典は必須の教養であり、古典が必要なことは自明だという前提であらゆる議論が立てられてきた>

 


と触れていますが、なんちゅう傲慢なことか、と思っちゃいますね。「古典は必須の教養」と考える僕でも。

こういう独りよがりな「自明」設定が自らの首を絞めてることを自覚した方が良いし、それが「可視化」された点に本シンポジウムの意義はあったと考えます。

(「自明じゃない」と考える人が多数派…とは思いませんが、「自明じゃない」人(否定派)がしっかりと論を展開するのに対して、「自明」と思ってる人話す術がなく、結果として自分たちが「自明」と思ってたものの生き残る余地を狭めてしまう…という点があきらかになっています)

 


一番心配なのは、「結局<古典>を学んでる人って、こういう独りよがりな主張しかできないんだ」と整理されてしまうこと。

そう思われたら、「それは<教育>じゃなくて、<趣味>の場でやってください」って話になりかねない。

その危険性すら、肯定派の対応には感じられました。

 


まあ、多分「ガン」なのは<文法>ですw。

「古典が重要」

ってのは、多少ココロある人は考えてますよ。

コンテンツ&その歴史的位置づけにおいては。

でも「あり、おり、はべり、いまそがり」が重要と言う人はそこまで多くないw。

それを「高校教育において必須」という位置づけにするのが本当に必要なことなのか。

…聞きたいのはソコです。

そしてその答えはこのシンポジウムの肯定派の方々から聞くことは出来なかったのが残念…ってのが総括ですかね。

 


正直言って、学者が何でもかんでも優先位付けで論拠を張るの無理だし、それをやる時間があったら研究を進めてよ…って気持ちもわかります。

ただ「時間」や「予算」が限られる以上、「優先順位付け」は必ず必要です。

それを「他人任せ」にしてて良いことはないですよ…ということでしょうか。

 


難しい話ですが、こういうシンポジウムくらいでチャンと論陣はるくらいのことはできないとなぁ…。