鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

いやぁ、面白かった:読書録「危機と人類」

・危機と人類<上・下>

著者:ジャレド・ダイアモンド  訳:小川敏子、川上純子

出版:日本経済新聞出版社(Kindle版)

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読み始めて、

「コレ?日本での出版向けに加筆された日本版?」

と思い、

読み終えて、改めて、

「日本版だっけ?」

 


それくらい「日本でこそ読まれるべき作品」になってます。

取り上げられているのは7カ国。

フィンランド、日本、チリ、インドネシア、ドイツ、オーストラリア、アメリカ

この中で「日本」は<明治維新>と<第二次大戦後>の二回取り上げられています、

これは「日本」だけ。

そこに作者の日本に対する驚き(明治維新と戦後復興)と危機感(現代)が見て取れています。

作者自身の焦点は「アメリカ合衆国」にあるし、アメリカの現状に向けてこその批判の作品であるのは確かなんですがね。

 


それにしても関心と興味を掻き立てられる作品だったなぁ。

いまだに投げかけられた「問い」について考えさせられているというのが現状。

正直、「感想」や「まとめ」のような感じで本書について語るのは、現時点じゃちょっと無理です。

それくらい深く届いてきた作品でした。

 


そういう意味で、「感想」ではなくて、本書を補助線として、僕が考えてきて、今も自分で定義している近代から現代にかけての「日本」の<姿>について断片的に記しておきます。

 


<明治維新>

日本に転換点となったのは間違いないでしょう。

個人的に幕府側に思い入れがあるのでw、「明治維新、万歳」には違和感を感じざるを得ないのですが、大筋ではジャレド・ダイアモンドが定義した通り、これだけのことを短期間に成し遂げたのは特筆に値することではあるか、と。

一方、その<成果>には「前提条件」と「副作用」もあったと思っています。

「前提条件」としては江戸時代までの日本の国力と国民レベルの高さ。加えて隣国の大国である「中国」の停滞です。

黒船来航によって明確化した国難を把握するだけの知識レベルがあり、それに対する対応を打ち出すだけの指導者層のレベルの高さとそれを受け入れる国民レベルがあったのは、それまでの日本の蓄積でした。

世界的な大国であった「中国」が覇権的な動きを日本に対してはしておらず、明治維新期には停滞により、国力を相当落としていたことも日本にとってはラッキーでした。本書で語られるフィンランドとソ連(ロシア)の関係を考えると、その幸運度がよくわかります。

 


<昭和初期>

この<明治維新>の成果が「副作用」となってしまったのが昭和初期のファシズム時代でしょう。

維新をさせた人材が、大国である「西洋」の国力をリアルに把握し、それに対抗していくための政策を忍耐強く実行していくことができる「現実主義者」によって構成されていたのに対し、その「現実主義」の側面を落とし、成果や形式のみに焦点を当ててしまったところに、昭和初期の失敗はあると僕は思っています。

同時に維新期から日清戦争によって培われた「中国」に対する侮り。

これが泥沼となる日中戦争の契機となっていますし、この点は戦後から現代に至る前での日本の「悪癖」になってしまっているとも痛感しています。

 


<ナショナル・アイデンティ>

<明治維新>は新たな「ナショナル・アイデンティ」の創生でもあり、そのことに成功したことが、その後の日本の隆盛を支えています。

これは「戦後」も同様。

「ファシズム」に対する強い反発は定着しつつも、大きな枠組みは維新期から日露戦争までに成立した「ナショナル・アイデンティティ」をベースにして戦後の復興はなったと考えています。

一方で、日露戦争後の近代日本の迷走については、その「ナショナル・アイデンティティ」

には「なかったこと」に等しい扱いになっています。

このことが近隣諸国との軋轢になっている点は本書で指摘されている通りだし、その自覚が薄い点は「ドイツ」との比較において明らかでしょう。

 


<中国との関係>

明治維新期の成功の副作用で最も大きいのはこの点かもしれません。

端的に言えば、中国は「覇権的大国」になろうとしていますし、それを阻むことは(現時点では)できないと考えられます。

すなわち今後の日本は近隣である大国「中国」と、実質的保護国である大国「アメリカ」との関係性の中で舵取りをしていく必要があるということです。

フィンランドの例に明らかなように、このような難しいポジションでの舵取りには「現実主義」的であることが最も重要なスタンスになります。(明治維新の指導者もそうでした)

そのことに自覚的であるかどうか、と言うのが、今の「日本」に対する懸念だと僕は考えています。

 


<教育のあり方>

フィンランドの教育レベルが高いのは有名な話。

しかしこれはフィンランドが「現実主義に基づく舵取り」をしていくためには不可欠な政策でもあります。

「現実主義」は「妥協」を必要としますからね。

国民にこの「妥協」を理解させるためには、大層の国民にそれが理解できるだけの知力が必要となります。(感情を抑制するためにも)

「リーダー」を生み出す教育に重点を置くアメリカやイギリスとは、この立ち位置が違う。

翻って日本はどうすべきか?

僕自身は「教育機会の平等」が極めて重要と考えていましたが、この観点からは「教育<結果>の平等」(底上げ)も必要なのではないか…と考えるようになりました。

「答え」があるわけではないですが(あるものでもない)、本書を読んで自分の考えが最も揺らいだのは、この観点かもしれません。

 

 

 

こう言う本は「政治」や「教育」にたずさわる人は、「教養」の範疇で読んどくべき作品なんでしょうがね(作者自身、指摘している通り、学術論文ではありません)。

 


<無知な指導者が跋扈しているのも事実だが、国家指導者のなかには幅広く本を読む人もおり、彼らにとっては過去よりも今のほうが歴史から学びやすい時代である。各国の首脳陣をはじめ数多くの政治家に会ったとき、私の過去の著作に影響を受けたといわれるのはうれしい驚きだった。>

 


その政治家に多くの日本人政治家が含まれていると良いんだけどなぁ…とマジで思ってます。

(少なくとも、「日本」パートのほか、「フィンランド」「ドイツ」は必読かと)