・女たちのテロル
著者:ブレイディみかこ
出版:岩波書店
パンクな社会主義者(w)・ブレイディみかこさんが、ほぼ100年ほど前に社会に対峙して苦闘した3人の女性の「伝記」を描いた作品。
取り上げられるのが、この3人。
・金子文子(大逆事件の<首謀者>のひとり)
・エミリー・デイヴィンソン(英国の女性参政権活動家。ダービーで国王の馬に飛び込んで死亡)
・マーガレット・スキニダー(アイルランドのイースター蜂起のスナイパー)
メインとなるのが「金子文子」で、その歩みに呼応する形で他の二人にも言及するスタイル、かな。
ただ「暴力の行使」で言うと、「金子文子」は<冤罪>臭いのに対して、他の二人はガチ。ただ<生き方>としての腹の座り方は、三人とも「只者ではない」って感じ。
実は娘の夏休みの宿題に絡めて、「参考になるかなぁ」とも思って買ってみたんですが、「とても、とても」って感じでしたw。
歴史の中に埋もれているような女性闘士の「伝記」と言う意味では興味深い作品です。
(関東大震災時の朝鮮人大虐殺については最低限の知識はありましたが、「大杉栄」は知ってても、「金子文子」のことはあんまり知りませんでした)
「女性の地位向上」や「民族独立」と言う視点からは、彼女たちの苦闘を高く評価する…というのは理解できます。
一方で、作品として「テロル」という言葉を置くのが適当なのかどうかについては、考えさせられます。
「金子文子」については「テロ」という点では首謀者じゃないし、そもそも「予謀」としても成立してたかどうかは、大いに怪しい。
「マーガレット・スキニダー」は「テロ」というより「独立戦争」を戦ったと評価すべきでしょう。
一番テロに近いのは「エミリー・デイヴィンソン」ですが、それでも手法としては今の「テロ」とは随分と違う。
言葉として「テロル」を置くことで、インパクトを与えるという点については理解しますし、
「現状に対する異議申し立てとして、<暴力>を容認する」
という意味では「テロ」と言ってもいいのかもしれない。
ただこれだけ現実社会において「テロ」が問題となっているタイミングで、そこに呼応するような単語を置くことがプラスだったのか、マイナスだったのか。
個人的には悩ましいところだと思うんですけどね。(それも含めての問題提起、という意義はあり得るとも思います)
まあ、何にせよ、「腹の座った」女たちの、一種清々しさも感じさせもする闘いっぷりを一読する価値はあるかな。
(「それに比べると、朴烈とかなぁ…」とか思ったりして。それはそれで<時代>と対峙した結果なのかもしれないし、キッカケとなった官警の拷問とか考えると、軽々に言うべきことではないか)
女性達は今も戦っているけど、こういう「手法」を選ばなくても良くなってはいる…と言う点には感謝しつつ。
…なってるよね?