鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

「出版」ってのはビジネスと文化の綱渡りなんだなぁ、と。

今日は息子の希望で、また梅田の「MARUZEN&ジュンク堂書店」に。

僕もここは「お気に入り」になってきてます。

 

なにやらお小遣いを握りしめて、地下のコミックコーナーにラノベを買いに行った息子と分かれ、僕は3階の文芸書のコーナーに。

ズラッと並んだ本の物量には、やはり圧倒されるものがあります。

放って置かれたら、半日くらいは過ごせそう。

(もっとも「ジュンク堂」にしてはフロアの椅子が少し少ないかな)

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並んでる和洋のフィクションの背表紙を眺めながら思いだしたのは、幻冬舎の見城徹さんの騒動のこと。

まあ、色んな人が言ってるように(そしてご本人も謝罪しているように)アレ自体は「トンデモ」だったと思うんですが、一方でズラッと並んだ本を見ながら思ったのは、

 

「さて、このウチの何冊が、あそこでコメントされてた部数以上売れてるのかな?」

 

…多分、そんなに多くはないでしょう。

それでもこれだけの冊数の作品が出版されて並んでいると言うことは、出版社ごとにはそれをカバーできる「何か」がある…ということ。

例えばそれがコミックスだったり、雑誌だったり、不動産だったり、文化事業だったり、映画・テレビ化だったり…(息子がハマってるラノベも)

そして幻冬舎の例の百田さんの作品っていうのは、その「ひとつ」ではあるんだろうなぁ。

 

もちろん、ベストセラーが出版社の経営を支えるからと言って、その出版社で本を出す著者がそのベストセラーやその作者にひれ伏さなきゃいけないわけではない。

むしろそうだとしたら作家としての資質を疑うし、それを求める会社があるとすれば、その会社が出版文化に携わる意義は全くない。

だからこそ多くの作家が声をあげたし、見城さんご本人もすぐに謝罪・撤回したんでしょう。

 

でもまあ、そういうことを口走っちゃうところに、出版文化を担うものとしての堅持以上に「経営者」としての計算が先に立っちゃったのかなぁ。

それは「経営者としての苦渋」だったのかもしれないけど。

それは出版文化を担うものが決して口に出してはいけないことなんでしょうけどね。

 

「日本国紀」については僕は読んでないんで、内容についてはドウコウ言う資格はありません。(読む気もなかったんですが、今回の騒動でチョット誘惑されてますw)

ただ参考文献の表示はすべきだし、それなくしての引用やコピペは論外でしょう。(論を展開する本なら参考文書を表示し、引用はしっかり明示すべき。フィクション寄りの作品なら、コピペは論外)

 

<執筆にあたっては大量の資料にあたりましたし、その中にはもちろんウィキもあります。しかしウィキから引用したものは、全体(500頁)の中の1頁分にも満たないものです>(百田尚樹)

 

百田さんは構成作家をされておられますからね。

もしかしたら引用やコピペに関する感覚はテレビ文化に近いものがあるのかもしれません。

しかしそれじゃあマズい。

 

出版業界の厳しさは仄聞してるし、本に助けられてきた人生を送ってきたものとしては、なんとかこの苦境を乗り切って行って欲しいと思っています。

だから「経営」としての構図というのは理解できなくもないんですよ。

ないんだけど、守らなきゃいけない「一線」と言うのはあると思います。

見城さんのツイッターがそれを超えたのは確かでしょうが、それ以前に「日本国紀」を巡る<引用・コピペ>問題は、<文章を書く>上での最低限の一線を超えてしまってるんじゃないかなぁ…と。

 

正直言えば幻冬舎で<別冊>として、「日本国紀・参考資料」って一冊出せば良いのにw。

格安でこれを出版する、あるいは全文をネット公開する。

「出版文化」を担うものとして、損を覚悟でもやるべきことだと思うんですけど、どんなもんでしょ?