鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

僕たちは「時代」と「場所」に縛られている。

Facebookで流れてきた記事で知ったんですが、

 

<村上春樹さん、亡き父の戦争体験つづる 文芸春秋に寄稿>

https://www.asahi.com/amp/articles/ASM584S8TM58UCVL00W.html

 

文藝春秋の最新号(2019年6月号)に村上春樹さんが自分の父親について語った小文が掲載されています。

 

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「猫を棄てる  父親について語るときに僕の語ること」


父君は甲陽学院の国語教師だった…のは知ってましたが、ここまで「不仲」だったのは知りませんでした。(まあ、知ってる必要もないですけど)


小文は父親の戦時中の経歴を追うことを中心に、「時代」と「人」の関係について語っています。

僕自身の父が昨年死んだこともありますが(ウチはこんな不仲じゃなかったとは思いますw)、「平成」から「令和」への移行の中で表に出てきているアレやコレやなんかを連想させられて、個人的にもちょっと心に残る文章になりました。


<おそらく僕らはみんな、それぞれの世代の空気を吸い込み、その固有の重力を背負って生きていくしかないのだろう。そしてその枠組みの傾向の中で成長していくしかないのだろう。良い悪いではなく、それが自然の成り立ちなのだ。ちょうど今の若い世代の人々が、親たちの世代の神経をこまめに苛立たせ続けているのと同じように。>


<我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。>


…なんか後半は「ブレードランナー」のバディのセリフを思い出させたりもして…w。(雨の中の涙)


こう言うことを書くのも村上春樹さんが歳取ってきたから、こう言う文章に心打たれるのも僕が歳取ってきたから。

要は<去る>ことを身近に意識するようになったからかなぁ…と。


もっとも「何を受け継いでいくのか」もまた、それぞれの一滴によって変わってくるってのもあるでしょう。

今後の天皇家を巡るアレやコレやのやりとりなんかを見てても。


僕はまあ、「集合的な何か」を考えるよりも「雨水の一滴」として、「今」を考えて行きたいって感じかなぁ。

一言で言えば「今を楽しむ」w。


エピキュリアン?


そこまで徹底したんもんじゃありませんよ。