鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

世代論は苦手なんですよね:読書録「現代社会はどこに向かうか」

・現代社会はどこに向かうか  ー高原の見晴らしを切り開くこと

著者:見田宗介

出版:岩波新書

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こちらのブログ記事に出てるのを見て、気になって読んでみました。

http://ta26.hatenablog.com/entry/2018/08/03/095449

 

ち〜と小難しい感じがせんでもないですがw、なかなか興味深く読めました。

基本的には

「経済成長を追い求める時代は終焉を迎え、低成長でも、それぞれがそれぞれなりの<幸福>を追い求める時代を迎えつつある(迎えなければならない)」

って言うのがベースだと思うんですが(読み違えてたら御免なさい)、単なる感覚論じゃなくて、色々データを持ち出してきて、興味深い論考を披露してくれてます。

近代における「合理性」の追求と、「自由」「平等」の抑圧の話なんか、特に刺激されました。

 

過去の世代に比して、現代の若者は、日本でも欧米諸国でも「幸福感」が高くなってる。

って言うのは、政治活動(特に野党、リベラル勢力)において重要な視点じゃないかと。

もちろん貧しい人、虐げられてる人は、現代の先進国にもいます。

東京医大の話なんか、先進国の日本における旧態依然とした差別意識を露わにしてますしね。

でも総じて若者は幸福感を高く持ちつつあり、それだけに「現状維持」へポジティブな感覚を持っている。

それは理解できます。

 

全般的な「幸福度」の高さは、「弱者救済」の指摘だけで、層としての若者を動員することを困難にしてるように思います。

政治活動よりも、ボランティアやNPOのような直接的行動を選択するのではないか、と。

そう言う観点で、日本のリベラル野党は決定的にズレてしまってるんじゃないかと感じてるんですよ。

 

同時にその幸福度の高さは「世代」と言う括りも曖昧にしてるように思います。

本書に対する違和感はそこですかね。

経済成長を超えた社会の実現を担う層として若い世代に期待する…と言うのは分からなくもないんですが、そう言う「世代論」が成立しなくなってるのが「現代」なのではないか、と。

高原にいるが故に、「上」を目指すのではなく、それぞれが違う方向を向いていて、方向性が見出せなくなっている、そんな気がします。

だからこそポピュリズム的な動きに踊られやすくもある、とも。

まあ、昔から僕は「世代論」が苦手なんで、その苦手意識が出てるだけかもしれませんがねw。

 

<経済競争の脅迫から解放された人間は、アートと文学と学術の限りなく自由な展開を楽しむだろう。歌とデザインとスポーツと冒険とゲームとを楽しむだろう。知らない世界やよく知っている世界への旅を楽しむだろう。友情を楽しむだろう。恋愛と再生産の日々新鮮な感動を享受するだろう。子どもたちの交歓を楽しむだろう。動物たちや植物たちとの交感を楽しむだろう。太陽や風や海との交感を楽しむだろう。

ここに展望した多彩で豊饒な幸福はすべて、どんな大規模な資源の搾取も、どんな大規模な地球環境の汚染も破壊も必要としないものである。つまり、永続する幸福である。

転換の基軸となるのは、幸福感受性の奪還である。再生である。感性と欲望の開放である。存在するものの輝きと、存在することの祝福に対する感動能力の開放である。>

 

美しい展望だとは思いますけどね。