鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

読書録「ネットで『つながる』ことの耐えられない軽さ」

・ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ
著者:藤原智美
出版:文藝春秋

ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ

ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ



ここのところ会社の方でのネット環境に変化があったので、ネットやITツール関連の本を読み直したり、手に入れたりしています。
本書はドワンゴの川上氏がちょっと言及してたので読んでみた作品。
題名は「軽い」んですが、中身は思ってたより「硬い」し「重い」です。


事前予想では、
「ネットの進展についていけないアナクロ世代の繰り言」
って感じだったんですが(失礼w)、そういう側面がないとは言えませんが、かなりシッカリと現状を把握した上での「ネット批判」でしたね。


<いまぼくたちをとりまいていることばの変容は、おそらく人類にとって数百年に一度という規模で、人とことばの関係にのみならず、社会全体をまきこみながら加速しています。のちに人々は、この時代を人類史上のひとつの転換点として位置づけるはずです。>


グーテンベルグの印刷革命を契機とする「話し言葉」から「書き言葉」への社会の変遷、そこから立ち上がる近代社会の成立と進化、「ネット社会」の進展と浸透による「書き言葉」の衰退と「話し言葉」の復権
「ソクラテス」からスタートして歴史的な「言葉」のあり方を解説し、それが如何に社会や個人の「あり方」に影響を及ばしているかを考察する辺りは「読ませるな」って感じです。
「現代」の「ネット」による「話し言葉」のネガティブな影響を解説する辺りは、
「そこまでネットのせいかな?」
って感じもしなくはないんですが、一方でここ数日の国会論戦でのヤジのレベルの低さ/中身のいい加減さ/その対応の厚顔ぶりなんかを考えると、あながち・・・って気もしますなw。
「ネット社会」が結局のところ、大企業/アメリカ中心の集権的な構造を持ち、「英語」に言語が収斂して行くところに「バベルの塔」を重ねる辺りは、「文学者らしいな」と思わせるとともに、(例えばテロによる壊滅的な攻撃等によって)「その崩壊も・・・」などと、ちょっと余計な想像までしちゃいました。


作者自身は「ネット社会」の進展による「書き言葉」の衰退/「話し言葉」の復権、そのことによる(近代)社会の変遷を不可避と捉えているようです(その「変遷」を「後退」とも観ているようですが)。
その中で「書き言葉」の「力」を再確認し、


<問題は自己を支えることばの軸足をどこに置くかということです。それは思考するさいの立ち位置といってもいいでしょう。自分にとっての書きことばとは、自己を支え考えるためのすべてである。そのように規定して日常をあらためて生きていくしかない。>


と結論づけます。
そしてどうやら「ネット断食」に入ったようですねw。
それはそれでありかな、と。
「書き言葉」を重視しながら、その上に成立した社会について、


<かつての「つながり」が、すべての人を幸福にしたわけではないということも忘れてはいけません。その「つながり」が不幸を生む元凶だったこともあります。声高にかつての「つながり」の復活を唱える人々は、そのことを忘れているのかもしれません。
 近代の理想は、人が「個」として自立することだといていいかもしれません。しかし現実は、国家やその末端の単位としての家族、地域社会への帰属意識を半ば強制してきました。>


という批判的認識もあるわけですからね。


僕自身はもう少し「ネット」に「未来」を見たいと思っています。
まあ昨今のネット言説の劣化やら、ネット周りのアレやコレやに嫌気は感じてますし、一時期の「楽観」は大分後退しちゃってますが、それでもそれが「不可避」であるとの認識があるだけに、やっぱり「明るい」未来を見たい、明るく「したい」・・・それが僕の今のスタンスですかね。
何が出来てるって訳でもないんですがw。


でもなかなか興味深く、考えさせられる作品でした。
今の「ネット社会」の有り様や、そこにつながるコレまでの歴史、さらにそこからみえる「方向性」を考える上において良い題材になると思います。
「暗い」けどw。