鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

読書録「昭和史の逆説」

・昭和史の逆説
著者:井上寿一
出版:新潮新書



「結局、近衛・東条かぁ」
と言うのが読後の印象。
勿論、歴史の流れに個人がどこまで影響できるのかと言うのはある。
置かれた環境、与えられた権力、国内外の情勢、大きな歴史の潮流…
一個人がそこに抗うのは難しいとも言える。



ただそうであったとしても、理想とリアリズムと責任感によってなし得るコトもある。
本書が描いているのは、戦前の昭和史における、そう言った個人たちの「抗い」のドラマとも言えよう。
「軍部のファシズムによって、なす術もなく戦争に雪崩れ込んでしまった」
と言った単純化された昭和初期の政治観とは異なる、与えられた条件のなかで、苦闘する個人の姿が描かれているのだ。
意外なのは、局面局面においては、彼らは成果も手にしていると言うコトだ。
その一歩に見えるリアリズムには、戦前の政治家たちを見直させる視点もある。


にも関わらず、なぜ日本は敗北の見えていた戦争に突入せざるを得なかったのか?


これは実に重大で、しかし簡単に解くコトの出来ない問いかけだ。
局面においては、近衛文麿・東条英機の判断ミスはやはり大きいと思う。
だが彼らがその様な判断ミスを犯すに至る背景もそこにはあったようにも思うんだよね。


それは大きくは「歴史の流れ」と言うものかもしれない。
具体的には「国民の支持」(あるいは不支持)と言う形でそれは現れているんじゃないかな?


<浜口はこのような不足の事態に備えるべきだった、と批判するのは無理がある。しかし、権謀術数をめぐらし、天皇の権威まで政治的に利用しながら、軍令部や枢密院と渡り合っている間に、国民をないがしろにしていた感は拭えない。(中略)
ここにおいてようやく浜口は悟った。国民が、「呆れる程度を超えて議会政治に冷淡」になっていることを。>(P.50-51)


浜口雄幸のこの感慨に、僕はその一端を見る。


まあ難しいところだけどねぇ。
市民革命ではなかったにもかかわらず明治維新は、国民を国家に組み込まざるを得なかった。
急速に国民国家を形成する中で、支配層と国民のギャップを埋めるために活用されたのが「情報の統制」だ。
そのコトによって、維新後の日本は驚くべき速度で国家として成長するコトができた。
ただそのために国民の世論形成は歪んだものとなってしまい、昭和初期に至り、支配層は逆にその「世論」に振り回されるコトになる。
…そんな構図が僕には見えるんだけど、どんなもんでしょう?
そしてその構図は「現在」においても根本のところでは変わってないのではないか、と…。


めまぐるしく首相が変わる政治の混乱。
国際政治と国内政治のギャップ。
政党政治への国民の「呆れる程度を超えた冷淡」。
08年に出版された本で、題材は戦前なんだけど、実に現代性のある作品だと思いますよ。
(「キラキラ」のコーナーで薦められてて読んみる気になったんだよなー)