鈴麻呂日記

50代サラリーマンのつぶやき

まあ、こんな感じかもね:読書録「ネットは社会を分断しない」

・ネットは社会を分断しない

著者:田中辰雄、浜屋敏

出版:角川書店

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民主主義を推し進め、補完し、強化していくことを期待されていたネットが、罵詈雑言と中傷に満ちた荒れ果てた世界となってしまった。

…という認識が、本当に正しいのだろうか、という点を、大規模なアンケート調査をベースに分析した作品。

「ネットベース」の調査という点に分母への不安(偏りやバイアス)を感じなくもないのですが、内容的には問題が少ないのかもしれませんね。(ネット以外の調査が必要な論拠の場合は他の調査や、他国での大規模調査・分析などを引用しています。)

 


本書はご丁寧にもw各章の冒頭で「分析結果」についてまとめてくれているので、それを追うことで全体の主張を確認することができます。

 

 

・分断は本当にネットのせいなのか?


<分断が進んでいるのは、年齢別に見ると中高年だという事実(中略)。ネットのせいで分断が進むのならネットをよく使う若年層ほど分極化し、分断されているはずである。それなのに事実は全くの逆であり、分極化しているのはネットを使う若年層ではなく、ネットを使わない中高年である。>


<ネットメディアを利用したから分極化するという傾向は見つからなかった。あったとしても一部の人に限られ、限定的である。大勢としてはむしろ逆にネットメディア利用によって人々は穏健化し、分極化は抑制されていた。すなわち、ネットは社会を分断しない。>

 

 

・ネットは選択的接触(エコーチェンバーやサイバーカスケード等)を促進するのか?


<ソーシャルメディアでの選択的接触は実は強くない。調べてみるとTwitterとFacebookで接する論客の4割程度は自分と反対意見の人であり、決して自分と同じ意見の人ばかりではない。(中略)単純比較すると、新聞・テレビよりソーシャルメディアの方がむしろ選択的接触が弱い。ネットでの方が選択的接触が少なく、自分と異なる意見に接しているのなら、ネットを使うと穏健化することも、若年層ほど分極化していないのも自然である。ネットではリアルより多様な意見に接しているため、人々が分極化せずむしろ穏健化している>

 

 

・ではなぜネットでの議論は極端に見えるのか?


(社会の変化(グローバル化の進展や格差の拡大等)による議論の先鋭化については本書の範疇ではないが、ネットにおいて議論が極端化して見えることには仮説がある)

<本書が用意する仮説的な答えは、ネットでの意見の表れ方がひどく偏っているという答えである。すなわち、ネットを使っている人の意見が分極化している事実はないが、極端な意見が突出して目についてしまう構造がネットにはある。すなわち一部の極端な意見の人が拡大され、大勢であるようかのように見えてしまう。これがため、ネットは馬頭と中傷の場になってしまうのである。>


<ネットで表明され、我々の目に入る意見分布は保守・リベラル共に両極端に偏る傾向がある。理由は、総書き込み数、閲覧頻度、萎縮効果の3つに整理できる。まず分極化した急進派の書き込み数が(一人当たりの書き込み数ではなく)総数でも多い。第二に、急進派の激しい書き込みほど閲覧頻度が高いところに好んで書き込まれ、リツイートやまとめサイトで拡散する。第三に、激しい攻撃的言葉の応酬に嫌気が差して穏健派が萎縮し、書き込みをひかえてしまう可能性がある。>

 

 

作者たちはネットが分断化を進めるどころか、穏健化を促進する可能性も高いことに希望を持ちつつ、ネット議論の極端化を避けるためのネットメディアやSNSの仕組みの変更について検討を提案しています。

ここら辺、リアル世界におけるフェイクニュースをめぐる動きとも重なるところがありますかね。

 

 

 

個人的には子供たちのと「スマホ戦線」を考える上において、「ネットを使うことが多様な意見に触れ、穏健化を促進する」という点は一考に値するかと(リアルメディアの方がむしろ選択的接触が強いという点も加味して)。

スマホを与えることの懸念の一つに選択的接触によるネトウヨ・パヨク化があったんですが、その点は心配しすぎることはないのかもしれません。(僕自身はネットメディアやSNSで多様な意見に触れることが増えているという自覚もあります)

そうは言っても年齢的なことは考慮しておく必要はあるでしょがね。

 

 

ちなみに「分断が進んでいるのは中高年」という分析がありますが、これは正式には「中高年のオッサン」w。

女性にはそういう分断の傾向は見られないようです。

そういうオッサンも、多くの人はネットに接することで多様な意見に触れ、穏健化する傾向が見られるとのこと。

最近、ちょっと気が短くなってきてる気もするので、やはりもっとネットに接さねばならぬのではないかと…(自己弁護?)

(メモ)「危機と人類」:ドイツの戦後対応

第二次世界大戦後のドイツと日本の周辺諸国への謝罪の姿勢が大きく違う…と言うのはよく言われること。

ただこれについては僕は、

 

「ドイツに関してはヒトラーをはじめ主要権力者が死亡した<ナチス>に全てをおっかぶせ、一般国民は<ナチスの被害者>という立ち位置にしたから謝罪がしやすかった」(すべてはナチスのせいにした)

 

と思ってました。

ここら辺、「エロイカより愛を込めて」で「鉄のクラウス」が「国防軍だった父親をナチスのクソ野郎と一緒にするな」みたいな感じで激怒してたシーンの影響を受けているのかもw。

 

 

ただ本書を読むと、そうも言い切れないとこがありそうです。

 

 

一つは1958年以降の「フリッツ・バウアー」の活動。

ドイツ系ユダヤ人の法律家であったバウアーは検事長として、ナチスではなかった一般のドイツ人の「人道の罪」を裁いたのです。(「アイヒマンを追い詰めた男」として有名なようですが、より幅広い動きをしてたようです)


<ドイツ人が犯した人道に対する罪を自分は追及している。ナチス国家の法律は違法であった。そのような法律に従っていたことは行動の言い訳にはならない。人道に対する罪を正当化できる法律など存在しない。善悪のきじゅんは一人ひとりが持つべきであり、政府に左右されるものではない。>


その過程で、<自分は強制されたのだと弁解していた被告の多くが、実際には強制ではなくみずからの信念にもとづいて行動していたことが明らかとなった。>


バウアーの追求自体はほとんどが身を結ばず、60年代に被告はつぎつぎと無罪となったとのこと。

しかし<ナチスの犯罪行為は数人の邪悪な指導者だけがおこなったのではない。多数の、ごくふつうの兵士や役人がナチスの命令を実行した。(中略)そして、彼らの多くが、西ドイツ政府の交換となっていた。>

 


この「可視化」を踏まえて、68年の学生運動は、若者の親世代への異議申し立てとして盛り上がった。

日本の学生運動も同様の側面があると思いますが、この「可視化」の重みが大きく違うのではないかと推察します。

 

 

もう一つは「地政学的な制約」。

具体的にはヴィリー・ブラントの周辺諸国への謝罪の姿勢(ワルシャワ・ゲットーで跪いて謝罪したことが有名です)から、ヘルムート・コールの東西ドイツ統一への流れの背景に現れます。


(その評価そのものは色々論議もできますが)第一次・第二次世界大戦を起こし、周辺諸国にも多大な被害をもたらしたこと。

(島国日本と違い)その多くの国々と、敗戦後も国境を接して関係して行かざるを得ないこと。

東西に分離された国家の回復は、自ら主体的にはなしえず、その周辺諸国の理解と、覇権大国(アメリカとソ連)の了解が必要であったこと。


これらのことがドイツの外交姿勢を制約し、周辺諸国との関係性を強化しつつ、理解と納得を得ながら国家運営をしていく必要があったという点です。

先に挙げた「自ら戦争犯罪を裁く」という姿勢と呼応することで、ドイツの謝罪外交は深まったとも言えるのではないか、と。

 

 

もちろんEUの中心国となり、経済的「勝ち組」となったことで、周辺国の「邪心」を呼んでいる気配もありますし、ドイツ国民自身の「慢心」も生まれているように見えます。

東西ドイツを統一し、ドイツとして国力を大きく伸ばしたことで、ある種の目的を達成したことが、ドイツにとって一つの「曲がり角」になる可能性はないとは言えないでしょう。

 


ただドイツの戦後歴史のこういう側面は、同じく敗戦国である日本も認識しておくべきだと改めて思いました。

(本書もそうですが)「ドイツを見習え」とは、必ずいわれることですからね。

(メモ)「危機と人類」:フィンランドの外交方針

「中国」と言う近隣の大国、「アメリカ」と言う保護国的位置づけの大国

この2大国との関係を「現実主義」的に処理していくことが今後の日本の地政学的な課題。


(特に近隣大国である「中国」は、

<覇権的な色彩を強めている>

<朝鮮半島(韓国、北朝鮮)と合わせて、反日的な感情ベースがある>

<近代歴史の中で日本が侮ってきた歴史があり、その心理的な傾向を払拭できていない>

…と言う点で、極めて重要)

 


その参考として「フィンランド」の現実的スタンスは役に立つと思う。

ケッコネン大統領の自伝抜粋。


<フィンランド外交に託された第一の課題は、わが国の存立と、わが国の地政学的環境を支配する利害関係との折り合いをうまくつけることである…[フィンランドの対外外交は]予防外交だ。予防外交でやるべきことは、危険が間近にくる前に察知し、危険を回避する対策を講じることであるー望ましいのは、対策が講じられたこと自体が察知されない方法だ…とくに、自国の姿勢が趨勢を変えられるなどという幻想を抱いていない小国にとっては、軍事分野や政治分野での事態の展開を左右する要素を、早めに正確に把握することが非常に重要だ…国家は他国をあてにしてはいけない。戦争という高い代償を払って、フィンランドはそれを学んだ…この経験から、小国には外交問題の解決にさまざまな感情ー好きとか嫌いとかーを混ぜ込む余裕はつゆほどもないことも学んだ。現実的な外交政策は、国益と国家間の力関係という国際政治の必須要素に対する認識に基づいて決定されるべきである>

AIに関しては倫理や道徳を考えなきゃいけないまでに現実的になってきたということかな?:読書録「AI以後」

・AI以後  変貌するテクノロジーの危機と希望

著者:丸山俊一+NHK取材班

出版:NHK出版新書

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正直、「AI」に関する本はソロソロ遠慮しとこうかな、と思ってたんですけどねw。

本書はEテレで放送された「人間ってナンだ?超AI入門」の特別編を書籍化したもの。

番組は見てないんですがw、この制作班(「欲望の資本主義」とか作ってる)はなかなか面白い番組を作ってるので、読んでみる気になりました。

 


取り上げられているのは四人の学者のインタビュー。

それぞれ宇宙物理学者(マックス・デグマーク)、倫理学者(ウェンデル・ウォラック)、哲学者(ダニエル・デネット)、編集者(ケヴィン・ケリー)と、「AI」についてはエンジニアや開発者、IT起業家等の「本職」じゃなくて、その周辺、どちらかというと「哲学」系の研究をしている人物に語ってもらっています。

…って僕が知ってるのは「テクニウス」のケヴィン・ケリーくらいでしたがw。

 


四人とも共通するのは、

「AIが社会的に広く浸透する時代が来るのは間違いない」

という点。

汎用AI(AGI)の可能性についても(定義や強弱はあるにしても)かなり実現性があると読んでいます。

その前提で、

「じゃあ、そこで<倫理>や<哲学>はどのように扱われるのか?」

と言うことが語られ、

「<人間>とは何か?」

と言う問いについて、結局は考察することになる…と言う流れになっています。

楽観的(デグマーク、ケリー)、悲観的・懐疑的(ウォラック、デネット)の幅はありますがね。

 


僕自身は「AGI」については懐疑的です。

ただその前段階として「AI」が社会仕組みの中にドンドン組み込まれ、一種の社会インフラになっていく…と言うのは間違いないと考えています。

「いい/悪い」を論議する前に、そういう状況は止める間もなく進んでいく、と。

 


そういう観点からは、

「(AGIをはじめ)問題が起きてから考えよう」

と言うのは既に遅い。

その認識のもとに、こう言うことをいろいろな切り口から考える人が出てくるって言うのは、「ありうべし」だし必要なことなんだと思います。

 


…とか言って、言ってることは結構難しかったですけどねw、四人とも。

言ってみれば「合理性」とは違うところを追求してるわけですから。(若干、デグマークは合理的に整理できると言うスタンスのようですが)

話を聞いてると、若干「空中戦」っぽくも。

でもそういうことを考えて行かなきゃいけないってことだし、そこに「人間性」が問われることになるってことなのかもしれません。

 


しかしまあ、色々言われるし、問題点があるのも確かだと思いますが、こういう番組を作ることができるって言う点で「NHK」ってのは特筆すべき組織ですね。

やっぱりこういう存在をなくすのは、日本にとってはマイナスだろう…と言うのが個人的な感想。

それに代わる存在が見当たらないですからねぇ。

31歳。全然、若けぇよw:映画評「空の青さを知る人よ」

もともとは子供たちが見に行きたいと言った作品。

公開から少し経っちゃってるんで、夜の回しかなくて、終了が20時以降になる場合は保護者同伴の必要あり。

…で、同伴となりました。

 

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空の青さを知る人よ

 

 

<空の青さを知る人よ>

https://youtu.be/e5pr9vcMh9g

 

 

あいみょんのこのMVを観て、

「これは青春ドラマの枠組みを借りた音楽映画では!

と思ったのも理由の一つ。

 


…ハズレ。

しっかり「青春ドラマ」でしたw。

 

 

ただまあ、その「青春」には31歳の二人も含めてのことですな。

なんかまあ、「終わっちゃった感」出しちゃってりしますが、

「30代なんて全然若造!」

ですから。

まだまだやること/やれること、ナンボでもありますから!


…で、そういう話になりますw。

 

 

ガキ向けと思いきや、予想外の秀作。

すっかり感情移入。

なんかこの手の日本アニメのコジンマリ感がチョット気になってたんですが、いや、これはこれで良いものではないか、とw。

 


ある意味、僕の世代の「大林宣彦」的な作品かなぁ、こう言うのは。

そう思うと人気あるのも分かるし、自分自身が惹かれるものを感じるのも理解できます。

個人的にはクレジットタイトルの「その後シーン」はなくても…と思うんですが(スゲェ、シャープなラストだったんで)、「そこがいい」という子供たちの気持ちも分かります。


思わぬ拾い物でございました。

あいみょんの主題歌もすっかり好きになってしましたよw。

 

いやぁ、面白かった:読書録「危機と人類」

・危機と人類<上・下>

著者:ジャレド・ダイアモンド  訳:小川敏子、川上純子

出版:日本経済新聞出版社(Kindle版)

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読み始めて、

「コレ?日本での出版向けに加筆された日本版?」

と思い、

読み終えて、改めて、

「日本版だっけ?」

 


それくらい「日本でこそ読まれるべき作品」になってます。

取り上げられているのは7カ国。

フィンランド、日本、チリ、インドネシア、ドイツ、オーストラリア、アメリカ

この中で「日本」は<明治維新>と<第二次大戦後>の二回取り上げられています、

これは「日本」だけ。

そこに作者の日本に対する驚き(明治維新と戦後復興)と危機感(現代)が見て取れています。

作者自身の焦点は「アメリカ合衆国」にあるし、アメリカの現状に向けてこその批判の作品であるのは確かなんですがね。

 


それにしても関心と興味を掻き立てられる作品だったなぁ。

いまだに投げかけられた「問い」について考えさせられているというのが現状。

正直、「感想」や「まとめ」のような感じで本書について語るのは、現時点じゃちょっと無理です。

それくらい深く届いてきた作品でした。

 


そういう意味で、「感想」ではなくて、本書を補助線として、僕が考えてきて、今も自分で定義している近代から現代にかけての「日本」の<姿>について断片的に記しておきます。

 


<明治維新>

日本に転換点となったのは間違いないでしょう。

個人的に幕府側に思い入れがあるのでw、「明治維新、万歳」には違和感を感じざるを得ないのですが、大筋ではジャレド・ダイアモンドが定義した通り、これだけのことを短期間に成し遂げたのは特筆に値することではあるか、と。

一方、その<成果>には「前提条件」と「副作用」もあったと思っています。

「前提条件」としては江戸時代までの日本の国力と国民レベルの高さ。加えて隣国の大国である「中国」の停滞です。

黒船来航によって明確化した国難を把握するだけの知識レベルがあり、それに対する対応を打ち出すだけの指導者層のレベルの高さとそれを受け入れる国民レベルがあったのは、それまでの日本の蓄積でした。

世界的な大国であった「中国」が覇権的な動きを日本に対してはしておらず、明治維新期には停滞により、国力を相当落としていたことも日本にとってはラッキーでした。本書で語られるフィンランドとソ連(ロシア)の関係を考えると、その幸運度がよくわかります。

 


<昭和初期>

この<明治維新>の成果が「副作用」となってしまったのが昭和初期のファシズム時代でしょう。

維新をさせた人材が、大国である「西洋」の国力をリアルに把握し、それに対抗していくための政策を忍耐強く実行していくことができる「現実主義者」によって構成されていたのに対し、その「現実主義」の側面を落とし、成果や形式のみに焦点を当ててしまったところに、昭和初期の失敗はあると僕は思っています。

同時に維新期から日清戦争によって培われた「中国」に対する侮り。

これが泥沼となる日中戦争の契機となっていますし、この点は戦後から現代に至る前での日本の「悪癖」になってしまっているとも痛感しています。

 


<ナショナル・アイデンティ>

<明治維新>は新たな「ナショナル・アイデンティ」の創生でもあり、そのことに成功したことが、その後の日本の隆盛を支えています。

これは「戦後」も同様。

「ファシズム」に対する強い反発は定着しつつも、大きな枠組みは維新期から日露戦争までに成立した「ナショナル・アイデンティティ」をベースにして戦後の復興はなったと考えています。

一方で、日露戦争後の近代日本の迷走については、その「ナショナル・アイデンティティ」

には「なかったこと」に等しい扱いになっています。

このことが近隣諸国との軋轢になっている点は本書で指摘されている通りだし、その自覚が薄い点は「ドイツ」との比較において明らかでしょう。

 


<中国との関係>

明治維新期の成功の副作用で最も大きいのはこの点かもしれません。

端的に言えば、中国は「覇権的大国」になろうとしていますし、それを阻むことは(現時点では)できないと考えられます。

すなわち今後の日本は近隣である大国「中国」と、実質的保護国である大国「アメリカ」との関係性の中で舵取りをしていく必要があるということです。

フィンランドの例に明らかなように、このような難しいポジションでの舵取りには「現実主義」的であることが最も重要なスタンスになります。(明治維新の指導者もそうでした)

そのことに自覚的であるかどうか、と言うのが、今の「日本」に対する懸念だと僕は考えています。

 


<教育のあり方>

フィンランドの教育レベルが高いのは有名な話。

しかしこれはフィンランドが「現実主義に基づく舵取り」をしていくためには不可欠な政策でもあります。

「現実主義」は「妥協」を必要としますからね。

国民にこの「妥協」を理解させるためには、大層の国民にそれが理解できるだけの知力が必要となります。(感情を抑制するためにも)

「リーダー」を生み出す教育に重点を置くアメリカやイギリスとは、この立ち位置が違う。

翻って日本はどうすべきか?

僕自身は「教育機会の平等」が極めて重要と考えていましたが、この観点からは「教育<結果>の平等」(底上げ)も必要なのではないか…と考えるようになりました。

「答え」があるわけではないですが(あるものでもない)、本書を読んで自分の考えが最も揺らいだのは、この観点かもしれません。

 

 

 

こう言う本は「政治」や「教育」にたずさわる人は、「教養」の範疇で読んどくべき作品なんでしょうがね(作者自身、指摘している通り、学術論文ではありません)。

 


<無知な指導者が跋扈しているのも事実だが、国家指導者のなかには幅広く本を読む人もおり、彼らにとっては過去よりも今のほうが歴史から学びやすい時代である。各国の首脳陣をはじめ数多くの政治家に会ったとき、私の過去の著作に影響を受けたといわれるのはうれしい驚きだった。>

 


その政治家に多くの日本人政治家が含まれていると良いんだけどなぁ…とマジで思ってます。

(少なくとも、「日本」パートのほか、「フィンランド」「ドイツ」は必読かと)

 

原点回帰っちゃあ、原点回帰:映画評「ターミネーター ニュー・フェイト」

前作(ジェ二シス)を観たときにつくづく思ったんですよね。

 

「ターミネーターってのは現代で無茶苦茶強くて異質な怪物が大暴れする映画。

SF的なゴタクはそのお膳立てなだけ」


で、キャメロンが復帰しての新作。

「T2」の正式な続編…とか。

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ターミネーター:ニュー・フェイト

 

 

さすがによく分かってらっしゃる。

タイムパラドック系のトコはサラッと流してw、後はドタバタの連続。

 

それはそれで良いんですが、結局分かったのは、

「この土壌(ターミネーター)に、もうそんなに実りはないなぁ」

ってこと。

だって、「T2」の焼き直し(よく言って拡大再生産)やもん、コレ。


キャラはええんやけどねぇ。

リンダ・ハミルトン。ムッチャ渋いw。姉さん(婆さんw)、ついて行きまっせ!

シュワルツネッガー。頑張っとる。ここまでやってくれるとは期待してなかった。

新キャラを演じるマッケンジー・デイヴィス。カッケェ!惚れる!

そしてエドワード・ファーロング。変わり果てた彼をどう扱うのかと思いきや…。オイオイw。

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それでこう言う感じなんで、やっぱりこのネタで新しいことをやるには無理があるのではないか、っちゅう訳です。


ドンパチ、ガッツンガッツン、ドカンドカンの連続なんで、退屈はしませんよ。

アミューズメントと思えば、コレはコレでOK。

体験する価値はあります。

ただかつての驚きは、もうない。

「三部作」とか言う声ありますが、どうかな〜。(ストーリー的には出来るでしょうけど)

マッケンジー・デイヴィスが再登場するなら観てもいいかもw。

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「アバター」の続編。

大丈夫かいな。